万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

アウトプットの話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

このブログを作ったときには、それに明確な意思があったのかどうかは一年後となって正確になぞるのは難しいけれど、正直多分なかったと言えよう。お世話になった先生が「ブログつくってみたら」という一言がよいきっかけだったけれど、書いてみればただただだらだらと書いているだけで、それを言えば小学校の時に半分強制的に欠かされたブログとそう変わらない。

そう、小学校もそういえばブログを書いていたんだな。周りの子たちより学習が少しだけ早いという理由でIQテスト取らされたり、課外授業みたいな感じの別の特殊学校まで通わされてスペイン語やったりブログ書かされたりした。一体あれは、なんだったんだろうな。

そもそもクラストはちょっとズレていて友達を作る才能はなかったみたいで、そんな別のところまで通っていよいよ隔離されるようでいやだったのだろうか、私は小学校の時にすでに登校拒否を訴えたりしていた。今から見ればいたわしいものだ。けど、性質と環境のどちらもあって、私はインプット重視の人間となった。

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情報を制する者は世界を制す。正にそんな概念にとらわれ、執念深く本を読んだり、ネットを漁ったりした。さながらさすれば世の中の情報すべてをいつか知れるかのように。だけど、いくら読んでも積読は減らない。それどころか、父より多くの本を私は生涯で読めるかすら危ういだ。あまりにも現代生活に他の情報源があふれているからだ。

中学校、高校を通じて私は否応なく少しずつ社交的になったけれど、大学二年生になるまで、いや、4年生になるまでかもしれないが、今のインプットとアウトプットをなんとか両立させる人間に慣れた。そのバランスは今でも難しい。なにせインプットは一人でも成り立つのだけど、アウトプットは対象が必要で、誰も見てくれないアウトプットほど虚しいことはない。数少ないこのブログの読者諸君に感謝である。

だけど、インプットばかりでは情報が偏ってしまう。独りよがりになり、終いには培ってきたアウトプットのスキルが鈍くなってしまって使い物にならない。だからこそ少なくとも他人と仲良くし、新しい人と会って新しいことを知る、情熱を交わし合う、教え教えてもらう喜びを知るようになった。過去の自分に胸を張って言えることだ。

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情報至上主義は正直今でも変わらないけれど、すくなくともその目的は「できるだけ集める」から「多種多様な情報をインプットし、良質なアウトプットを出す」という風に移転してきた。ある意味当たり前なんだろうけれど、私にはものすごい発見であった。

「誰よりも多くを知る」よりも、私は「知っていることを有機的に増やし、発信するツールや対象を増やす」方を選んだ。ブログもそうだし、一昨日から動画で本を紹介したりするのも新しいツールなのだ。初対面の人とどんどん話す機会も来日当初よりだいぶ増え、自分にとって「発信する」とはなんなのかを模索する日々だ。

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最近読んだ本に、組織の定義がなされたが、それは「二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系」という風に説明されいていた。つまり、いくら自営業や個人営業でも、持続可能な組織体系を作るには、インプットとアウトプットの両方が必要だ。二人で集まって、コミュニケーションした上でことにかかる。その三段階をえて漸く一人前ということだ。いや、二人前だろうか。

アウトプット、つまりは発信には様々な経路がある。それらをメディアと呼んでもいいけれど、各メディアにはまた利用者に使い方の余地はそれなりに残されているからいうてみればメディアを広義として捉えたものかもしれない。だからこそ、新しいメディアや技術が生まれなくとも、新しい発信の方法はどんどん生まれてくる。よりよいものをより鮮烈な、心にしみるような方法で発信するのは人間の本能だろうか。

しかし、それはまた別のときの話。