万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

人権の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

日本に来て、受講している授業が全部面白くて、ためになっているかといえば、それは違うということになる。けれど、時にはものすごく刺激してくる講義もある。元々自分の中で培ってきた価値観や、最近読んだ本の内容など、色んなものが現在の自分の意識内にある。それに対し、私と同じニュースを見て、同じ傾向を見るが、それを全然違う立場から見る人がいる。違う結論に行き着く人に出会うと、ものすごく刺激的で、大学ってこんな場所であってほしいなぁ、といつも思う。

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今日「国際コミュニケーション」という名の授業で特別講義をしてくれたのが、現在エッセクス大学に所属し、国連という立場から日本や海外の様々な大学で講演を続けている藤田早苗先生である。

彼女が取り上げた例をいくつか述べてみると、デイビッド・ケイ国連特別報告者が日本に対して表明した言論の自由に関する勧告、ミキ・デザキさん(ちなみに、今の大学の先輩)の「主戦場」という慰安婦問題を扱った映画、今年亡くなった日本文学者のドナルド・キーンさん、日本における収入格差や夫婦別姓に見るジェンダー・ギャップ、伊藤詩織さんが「Japan's Secret Shame」というドキュメンタリーで取り上げた日本の性犯罪の実態、イギリスのジョンソン首相の衆議院閉鎖の違憲判決、等々。

これらは、日本に住んでそういうものに対して問題意識を持っているのならおそらく全部ある程度知っているものだと思う。私自身は特に社会正義の味方ではないけれど、社会悪の実態を知ろうとする傾向(習性?)は高校・大学の環境からついていて、それが今の自分の情報接種に大きな影響を及ぼしているだろう。もちろん、これはこれでフィルターバブルであって、上の全部を知らない、という人もいるだろう。

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私がここで取り上げたいのは、そういう議論ではない。むしろ、一言で言えば「フレーミング」の問題である。つまり、これらのニュースは、どういう観点から見てニュースバリューのある問題なのか?藤田先生の視点から見れば、これらは全部保護されるべき人権に対する侵害に関するものだから、発信すべきだ、というような印象を私は受ける。その主張を、私は90%ほど理解できる。

ただ、先日から私の考え方を影響しているのは例のハラリ先生の「ホモ・デウス」である。本来なら彼に思い出されるまでもないことだが、人権というのはもとより「ない」ものである。それを藤田さんが、「1948年の世界人権宣言を以て、人権は国際化した」と公言している。これにはいささか反論したくなった。その言葉の意味はあまりにも広大で、ある種の傲慢さえ垣間見せると思ってしまう。なぜなら、批准しなかったアラブ諸国もいれば、批准した割には「人権」という概念を信じているようには見えない国がまだまだあるからだ。

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人権は「人間誰しもが生まれた瞬間から自然に持っているもの」と定義するなら、その概念は少なくともルソーの「自然権」にさかのぼる。保護されるべき権利の幅が広くなったにせよ、概念そのものはだいぶ前からあるのだ。そして、その意味でいえば人権はやっぱり「ない」のだ。人間同士が言語を通じて意思疎通し、両者の脳内にある程度共有されている「間主観的」な概念である。

人権が保護されるべきものではない、と言いたいわけではない。むしろ、人権を守ることで世界がより良いところになるのならそれは大いに結構だ。ただ、「人権のための人権」という理論は循環している。人権が自然にあるから、守るべきだ、というのは理屈としてあまりにも地盤が弱い。70年ほどの歴史で概念として定着してきたのでそもそもなんでそれが必要だったのか、忘れている人は多いし、ちゃんと考えずに育った人もいよう。

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ならば、人権を守る理由とはなんだ。それはつまり、「よりよい社会を形成するためだ」ということになる。人間が大勢集まれば社会を秩序立てるシステムが必要となる。長い歴史を得てたどり着いた「人権」という概念があって、「人権を守ることで社会はより良いものになる」という価値判断がなされるわけだ。

その価値判断の判断材料とは? 道徳的なものだろうか? 諸外国に比べて、人権を守った国の方が経済的に発展している、という歴史的観点を元にした発言だろうか?掘り下げてみれば、根拠を探すのはなかなか難しい。道徳を元でシステムを構築しようとすると、地理、経済や環境などの要素を度外視してしまう。そして歴史的な観点から人権を重視したシステムが成功したと言っても、その経済と環境が今まで通り続くことを暗に前提としているのだ。

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しかし、環境は今危機に瀕している。西欧諸国でも、大きな経済恐慌が十年おきに起こるようになった。資本主義システムに、果たして発展途上国の全部の人権を守るところに来るまで持つのだろうか? その前に、北極の凍解がおわるのではないか? 私はそういうことを思いながら、今日の藤田先生の話を聞いていた。

誰かは言った。資本主義はゼロサムゲームではなく、マイナスサムゲームだと。グレター・テゥーンベリーなどの環境活動家も標榜するように、今の消費量は到底持続的ではないから、もはや「減らすこと」でしか0に辿り着けないだろう。ならば、無暗に人権を標榜する前に、今後の世界システムを構築していくべきではないだろうか。

ハベルマスも行ったように、我々が生きている今だって、「未完全な現代」である。人権を標榜する多くの人たちは、今の世の中は間違っている、と思って立ち上がっているのだろう。それは私もそう思う。ただ同時に「そんなの、当たり前だ!」とも思ってしまう。不完全システムの中において、「人権」というユニバーサルな概念を守ろうとするのは、砂をつかむような作業だ。もしくはトランプカードを積み上げて建物を作るようなものだ。作っている途中で、どうしても下から崩れてしまう。

繰り返すけど、私はなにも「人権を守る意味がない」と言っているわけではない。ただ、人権を守るのなら、標榜するだけではなく、それが守られている世界システムの構築が先決なのだと言いたいのだ。「人権」は生まれた時から賦与される、ア・プリオリで神聖なものではなく、社会の中で生きて担保されるものだ。そのシステムの構築は政府の仕事や国連などの役目にしても、その維持は人間全員の連帯責任だ。

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これからも、人権は侵害され続けるだろう。けど、「侵害」とは結局言葉である。人権など「ない」、という立場から見れば、それはただ社会システムが我々から見て未発達だから、人権はまだ「成立していない」というだけのことで、何の矛盾はない。無法地帯と一緒なのだ。無法地帯の中にいて法を尊ぶものから先に殺される。無法地帯ではないにせよ、今の日本は「法の統治」が停滞している状態にあり、それゆえ大くの人権問題が放置されている。人権侵害を訴えた先には、いつも法律改正があるべきと私は思う。

法の統治はよりよい社会を作ることで大事なものだけれど、まだ法もない状態で他国から法を無理やり導入しようとしても、定着するまでは時間が掛かる。踏むべき段階がいつくもある。友人の何人かはモンゴルから日本に来て、法律を勉強していて、彼らなりにモンゴルの「法治国家」の形成に勤しんでいる。人権はそのプロセスの中で生まれる概念であって、外から押し付けるべき概念ではない、と私は思う。

しかし、それはまた別のときの話。