万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

憲法の話をしよう

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最近は夏休みに入り、来月に控えた大学院の入学試験の準備にあくせくしていながらノートを引っ張り出したり教科書を改めて読んだりしているわけで、自ずとそのような学説的な考え方が自然と施行を支配して行っている毎日である。その風に言えばあたかも朝から晩まで勉強しているように見えるのだけれど、勿論そんなはずはない。本ばかり読んでいては頭が詰まる一方で特に夏だとエアコン風邪になるのがオチだ。

なので、名目上院試の準備のためにあるこの夏をどう過ごしているかといえば、日本語能力を保ちながら院試分野においてすぐに引っ張り出せる知識を維持しようとして拡大しているわけだ。そのためにはやっぱり本をばかり読んでいては足りないなわけで、今のところはインプットをしながらもこのようにブログなどで自分の考えを言葉に出してアウトプットしようとしている。

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その中で、とりわけ今週読んでいるのは前期で受けた授業の教科書である「よくわかるメディア法」である。元々法律という分野は気障なものだと思って一笑に付していたわけだけれど、このようにまじめに打ち込めば法律が、憲法が自分の考えにおいてどのような立場にいるのか思い知らされることになった。

国にとって、例えていうなら憲法アイデンティティー、または価値観が可視化された文書である。このあいまいで具体性に欠ける理想の元、立法がなされ、市町村が条例を作ったりするわけで、それらが全部変わりゆく社会と価値観を反映して流動的なものだ。少なくとも、理想でいえばそうなのだろう。法は社会を作り、社会は法を作るという循環が、憲法の正しい在り方だと思う。

その為、日本の憲法を「守る」という言い方は、自分が憲法に対して考えている理念とはだいぶズレている気がする。ただし、理解できないわけではない。法が国の性格を可視化したものと見られるのなら、アイデンティティーの普遍性を信じる人であれば憲法もまた変わらずにあるべきという考えが自然な流れなのだろう。

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このような考えを持っている私が昨日シェア・ハウスのコモン・ルームでテレビ見ようと思ったら、そこに日本人のハウスメイトに出くわしていて、しかも香港のデモという、政治性の強い話題の報道やっていたわけだから、私は自分の考えをぶつけざるに入られなかった。しかし、これがやっぱりすれ違いの連続になり、2時間ぐらい話しても後から出た論点で一応合意ができたものの、自分が元々振っていた話がいつしかどこへやらという感じであった。

決してわざと煙に巻かれた、というわけでもない。ただ、このハウスメイトは日本という国の実情(少なくとも彼が認識しているそれ)に捕らわれ、私がしようとしている抽象的な憲法のあり方という話題から逸れるばかりなのだ。先日は戦後数年して昭和天皇が第二次大戦に対して「謝罪したい」と言い出したが、当時の吉田首相に止められたという話で、私は日本の国家としてのアイデンティティーとして誤らせた方が国の在り方として正しいのだろう、と主張した。

これはもう甲論乙駁が止まらない話題で、当時の東京裁判で私が存ぜぬ議論が様々な方面からなされている。ただ、私は理想として国家アイデンティティーの安定のために過ちがあると思うのなら誤ってもよいのではということをいようとし、彼もまた最終的には同調できた。ただ、その場合関係した国全員がそうすべきだといって、私も納得は行った。つまりはジャンケンのようなもので、先に出した方が被害を被ることは見えている。

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ただ、国同士の軋轢は相変わらず続く。ビスマルクの頃のドイツに被った被害者はもちろんないのだが、第二次世界大戦で不当な被害を被ったと思っている人々は未だに不満に思いつつも、その不満を法的な手段で解決できていないし、彼らが挙げられる問題が裁判所で今更争われることはない。今頃「東京裁判をやり直そう」とはならないのだろうけど、これらの軋轢を国民である人々のアイデンティティーの一部としてある限り、決して消えることはないのだろう。

憲法というものは真空にあるわけではない。確かに、彼に指摘された通り、いわゆる「空っぽ」の憲法を作っても、そんなものを誰が信じるか、という問題だった。明治時代には憲法の理念を象徴し、武力主権ではなく国民主権の座を守るために天皇があったのだけれど、今の世の中は憲法がこのような分かりやすい方法可視化できていないから、それがどういうものであるのかを気にする人は減る一方なのだ。

だからと言って天皇を復興せよと思うわけではないが、少なくとも外国諸国と同様に憲法を可変で流動的で、第一に今この時生きている日本国民、日本で生活する人々に合わせて随時改正してよいもの、いやすべきものと見てほしいとは思う。このままでは、憲法が聖書と同じ扱いになりかねない。社会の変動が急速化する現代で、憲法が変わらないのなら憲法なんてあってもなくても同じようなものだ。

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ちなみに、オランダは19世紀ごろにナポレオン時代に憲法が成立してから少なくとも26回改正されている。そのどれもその時代の新たに表れた思想、国民のニーズに合わせて変化していっているし、より完璧に近い憲法を目指してのことだ。このような前提の下で憲法を見ない人は右でも左でもなくただの「保守」である。未来を切り開くのは保守派であるはずがない。

そんなことを言ったら理想が過ぎるとか甘いとか言われかねない。現実は国というものが憲法解釈一つで世界情勢が変わり、世の中のバランスが崩れてしまいかねない。今は確かにそういう時代なのだろう。ただ、それを理由に保守を選ぶことは、自分の理念を裏切ることに等しい。普遍的なアイデンティティーがあるというのなら、それは自分をもっとよく、もっと優れた形に整えようとする目的意識がその中心にあるはずだ。その主体が個人であっても、国であっても同じだ。

しかし、それはまた別のときの話。