万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

フェイクニュースの話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ、

去年からメディアにどっぷりはまり、もちろんフェイクニュースの問題もレポートで何度も出てくるものだ。先日香港について書いたものもあるにはあるが、まだまだ公表するほど考えが固まっていないので、今回はNHKのドラマでフェイクニュースをテーマにした2018年の「フェイクニュースーあるいはどこか遠くの戦争の話」を見た感想を書こうと思った。現在もどこかで起こっているフェイクニュースがあり、それが実害を生んでいることを問題提起している作品となっている。その点は非常に評価するべきであろう。

f:id:yorozuyawakarando:20200105214849j:plain

言ってみれば軽い気持ちで青虫うどんに対して義憤に燃える猿滑という中年のサラリーマンはある意味善意ある市民である。確かに、彼のうどんに青虫が入ってしまっていた。それをフェイクニュースたらしめるのが彼がその「証拠」として使う材料である。それはすべて彼を利用する確信犯によって手渡されたものなのだ。むしろ、この確信犯からしたら「誰」がシェアしているのかは問題ではなく、シェアされ続けることでPV数を稼いでいるので、行ってみればビジネスである。悪意が皆無であるが、結果的には主人公たちは苦労もするし、猿滑は離婚し、職を失い、極めつけにホームレスになるという、惨敗ぶりである。

フェイクニュースをなぜ作るのか、それは普通のニュースを作る一つの理由でもある「得をする」ためである。テレビ局でも、企業運営のために広告費で賄われることが一般的で、視聴率にせよPV数にせよ、似たような指標を使って自分が広告をもらうための交渉のチップにする。その第一目的なのは一般的にいえば「企業の維持と発展」である。ネットメディアは新しい業態の為ベンチャー企業が多く、PV数を重視するか破綻するかという二択であればどちらを選ぶのかは明快だろう。メディアによっては本当に利益のためにやるところもあれば、やむなくそうしているところもあって、実際のところ玉石混交だと思う。  フェイクニュースを生業とする気偉業は「得をする」目的が一緒でも、得をする主体は流しているフェイクニュース業者だったり、その業者に依頼する企業なり国家なりである。一旦つくられたフェイクニュースは彼らとは全く関係ない人たち、つまり普通の「人間」によって広められる。我々が今日常を送っているシェア社会においてそれは容易にできることだ。

f:id:yorozuyawakarando:20200105215045j:plain

インターネットによって発信する、ということが民主化された。それは一見すごくいいことのように聞こえるが、フィルターバブル現象が生まれやすい環境であるという面から見て非常に危険な状況になりかねない。ドラマの後半では右派と左派、両方のまとめサイトを運営する神崎という登場人物がその最たる例である。フェイクニュースの最も大きなことはつまり対立である。インターネットというメディアの特性から、または現代人の生活習慣から、人々が日々吸収する情報が偏る一方で、フェイクニュースはそれを煽るような立場に立っている。一番わかりやすいでいえば、今の香港における対立も一つにはフェイクニュースの影響があると言える。

これだけ言えば大変恐ろしい世の中である。勿論、ファクトチェックという、ニュースの真実性をチェックする機関も存在するけれど、これにも色んな限度がある。それを一言でまとめるならば「ファクトチェックは誰の届くのか?」ということになる。ネットメディアはPV数重視になるような経済的状況の中でただでさえファクトチェック記事を載せるのは不効率だが、載せたところでどれほどの人が読むだろう。この「報道企業の運営困難」「メディア利用の傾向の変化」という二つの要因が、お互いを深刻化していく過程でフェイクニュース産業に拍車をかけていると言っていいだろう。

f:id:yorozuyawakarando:20200105215212j:plain

個人個人が自分で考えて意図的にニュースに触れる、もしくは自分のために最適化されたニュース環境を作るかという考え方もありえるのではないだろうか。これにはこれで問題点は枚挙にいとまがないが、デジタルリテラシーとはつまりこういう考えに近いのだ。イーストポストの若い社員が母親が在日コリアンの三世と北川景子演じる主人公の東雲に告白し、自分からフェイクニュースという存在に立ち向かおうとしているのがデジタルリテラシーに向けての一つのやり方と感じた。

もちろん、ドラマであるが故の大規模なモノガタリになっているのも否めないが、こういう大きな傾向を見せるためには話を大きくした方が伝わることもある。つまりフェイクニュースもちゃんとした調査報道も、伝わり方はある程度一緒なのだ。届いたものが一緒に見えているのに、作っている過程の方は調査報道が時間が掛かってしまい、広告収入以外に運営費を賄えるための財源がなければ長続きできないという図がパターン化されていく。  ドラマの中盤でもわかるように、青虫の件に関しては、ある程度は本当であった。フェイクニュースとして広まりやすいのは、あいまいな情報の中に真実の一点を見つけ、その一点で以て全体が真実と主張する、簡略化された思考を促すものである。

f:id:yorozuyawakarando:20200105215130j:plain

その連鎖を断ち切るには、定期的なファクトチェック機構や調査報道をする企業への投資と、ネットリテラシーへの啓蒙活動である。その二つを並行して行ってこそ、フェイクニュースと対抗することができるかもしれない。  最後に添えると、このドラマを見て実感したのが「インターネットだからフェイクニュースが増える」というわけではない。インターネットがニューメディアであるから、フェイクニュースが生まれやすい温床が出来上がっている。新しいメディアは財源や立場が弱いからポピュラリズムに走りやすい傾向がある。そのため、過去のニューメディアであるラジオやテレビを見ても学びはあるのだろう。

しかし、それはまた別のときの話。