万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

「苦手」な話をしよう

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人はみな、好き嫌いがある。そこまではっきりとしたものでなくとも、できればちょっと、とかなんとなくしないよな、とかのもの、読者諸君もみなあるはずだ。私自身はいつも胸を張って「日本で苦手な食べ物がない」と自負しているわけだけれど、納豆が食べれると日常的に食べているというのはさすがに違う。寿司とかお蕎麦とカモまぁ、誘われたら行くという感じで、一人で外食するとき、実はほとんど食べることはない。

苦手なものを克服して、立派な人間になりましょう、と高尚なことを言うのは簡単だ。正直そういう理想を持っている自分もどこかにはいるわけだけれど、日常だとか癖だとか習慣だとか思考の慢性化は気づいたら様々な方面から私の行動をむしばんでいるのである。それはもう、どうしようもないほど。行動と思考は違うし、「やるぞ」と思う気持ちと、実際その思考を発展させて行動に移すまで無意識なプロセスが横たわっている。

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だから、まずは自分の苦手なもの、知っているけれど何となく避けてきたものをリストアップして意識の閾上に出し、自覚することから、やってみたいと思う。つまり「自分自身に対して知らず知らずついている嘘や口実を、そうだと認めること」だろう。

私の場合は、書き出してみれば意外と多くてまず滅入ってしまう。「絵を描くこと」「車」「スポーツ」「人ごみ」「沈黙」「助けを求めること」「家族との付き合い」「プリクラ」「クラブ」「大人数とのおしゃべり」「原稿通りに発表すること」とか、本当に枚挙にいとまがない。初めて見れば、なんて悲観的で鬱々とした自己分析だ、って思ってしまう。しかも、無意識なものだから、おそらく自分が気づいていないだけでいくらでもと思うと、もう…

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けれど、分析してみればポジティブな面も出てくる。そう、気づかないうちに、自分はすでにちゃっかり克服していること、克服しつつある昔苦手だったものはたぶんあるのだ。人間、誰しも無意識のうちに自分の頭の中の整理を毎日毎日しているものだ。そうでもしないと中々生きていくのは難しいと思う。一年前の自分と今の自分は確実にどこか決定的にずれていて、頭の中で自分の人生をいくらモノガタリ化していっても、自分の個人史でさえも、本当の意味で把握し、意識することなんてできない。

我々はみな、現在に生きている。たとえ過去絵を意識して生きている人がいたとしても、それは「過去の一点」「あの時」という、個人史の中の限られた一部分で会って、それを意識しているのはやはり現在の自分である。だから、今の自分が過去に比べて具体的にどう変わってきたのか、突き詰めて考えることがあまりない。それこそ、そういう悩みが不要になるために、我々は無意識に自分のメンタル・ケアを日々行っているわけだ。

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そうしてみると、改めて自分の苦手なところを意識してみることで、実は得られるものが結構多いだということに気づく。人間の意識というやつはどうしてもネガティブ思考になりがちなところはあるけれど、こうやって昔の自分を想起して、今現在、ここ一か月だとか、一年だとかの自分に比べてみたら着実に変わってきている。

その変化が必ずしもいいかどうかは、勿論一概には言えない。もちろん、習慣や行動パターンが変わるのと同じスピードで、現代社会の流行や、生活環境は変わってきているから、無意識でさえも追いつかないこともあるだろう。その点でいえば、現代において精神疾患の患者が増えることも頷けるのだ。

だからこそ、終活とかでなくとも、そう、何歳になっていても、今自分が苦手としているもの、苦手としていたもの、昔は大丈夫だったが苦手になったものの色んな視軸から見るといい。自分に関して、不都合な事実もあるかもしれないけれど、思わぬ方向から自信につながることもあるのだろう。少なくとも、私はそう信じていきたいと思う。

しかし、それはまた別のときの話。