万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

日常の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

気が付けば7月に突進してきた私は、鈍ってきた。なにかもわーっとして、湿った空気に囲われているせいか、行動力を削ぎ落とされ、行動を起こすのではなく台本のように今まで予定していた行事を予定表通りになぞっていくだけの日常になってきた。人間はこうなったらだめだ、と高尚なことを言っていても、「欲」というのは変なもので「目新しさ」となぜか我々は繋げてしまう。

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けれど、これは一言で言えば「日常」である。ハネームーンフェースが終わった今、大学で講義にもサークルにも慣れ、シェアハウスの人間との関係をある程度築いた今、後は「維持」というなの守りに入ってしまうのが、人情なのだろう。「非日常」から「日常」というマンネリ化は、積極と消極の境界線を指すのだ。

それも当然のこと。非日常は新しいものが多いし、新しい上にその対処法がよくわからない。何とか対処しなければ、うまくやらなければ、という気力なり覇気なりというものは、非日常である証拠。夕陽を見た時のように珍しいものに感動したり振られた時のように沈んだり、そういう一喜一憂、起伏の多い人生を我々は怖がりながらも望んでしまう。

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けど、いずれかすべては日常になる。これはうちのハウスメイトの話なんだけれど、カンボジアの交通の煩雑さに怖がり、道を歩けず十分脇で立っていたその人が、一回超えてみれば三日目には平気な顔して左右も見ずにわたってしまうようになったらしい。そして、最初あんなに感動したステゥーパーもいずれは飽きてしまったらしい。高校の頃、ギリシャに修学旅行行ったときに、誰ともなくこぼされた文句が「壊れた神殿の跡地なんて、見飽きたよ」であった。そういうものなのだろう。

非日常が日常になろうとするその時、あなたはどうするか、っていうのが私が大学生の頃に見て好きだった「デュラララ!!」という名前のアニメの名セリフである。そして、今この瞬間、誰かがその質問を問いかけてきている気がしてならない。まだ止まってはいないけれど、今の私は失速しつつある。止まったらどうなるかは分からないけど、止まったら相当のエネルギーを消費しないと再出発できない気がする。止まってしまったら犠牲が出るから怖いと思って、今日ブログを書いているというわけだ。

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非日常の再生産は、極めて難しい問題だ。最近だと「ブラウンアウト」という、バーンアウトに対して言われるようになった。バーンアウト(言ってみれば完全燃焼」が仕事のやりすぎで精神疾患をきたしたりすることに対することばなら、ブラウンアウトは量というより質の問題なのだろう。

もちろん、この二つは相反するものではないけれど、現代社会では人はどうやらワークライフバランスの中にさらに「遣り甲斐のある仕事」を見つけられないことでさえ病気的と判断してしまっているのだろう。半万年ともいわれる有史以来、大半でそんなことを言えば「バタタレ、文句言わないで仕事せい!」と言われるのがオチだったろうに、現代社会はやはりどこか以前の社会の形式と決定的に違うのだろう。

もちろん私は無秩序主義でもアンチをやるほど、無駄にエネルギーを蓄えているほどではないので現代主義の闇を語るつもりなんてさらさらないけれど、自分の生活にかかってきた「日常」という名の靄をなんとかしなければと思って文章を書かなくてはと思った。考えるのが苦手な私は、本を読んで、文章を書く以外に効率よく考えられないと気づいたのは、いつのことだろう。ずっと知っているようで、未だに理解していないような気がする。

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結局人は「新しいもの」を求め続ける、ということだろうね。手元に何もない時に人は有る状態を求め、手に入ったらまた次のものを求める。ここでいうものは物理的なものでなくとも、出会いやら経験やら、生活やライフスタイル、そういうものも含める。雑誌やテレビなどはいまや「新しいものを提供する」という意味でのニュースを提供する機能を色濃く出してはいるけれど、その「新しい」にどの程度の差異が認められるだろうかは議論の余地があろう。

おやおや、結局メディアを出す所を見れば、私も短いうちにメディアという分野に染まってしまったのだろう。三か月、早いものなのだ。そういえば、昔から「交際は三か月の峠を越えれば長続きする」ということをよく聞くけれど、意外と心理なのかもしれない。

しかし、それはまた別のときの話。