万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

コロナの話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ、

世の中には、様々な問題が毎日起きている。今回の新型コロナウィリスのこの状況、それがよくわかってきた。ウィルスが起こったというだけで、こんなにも世の中変わるものだなぁ、と思うと同時に、その所為かお陰か、見えてくる問題点も山のように積る。

もちろん自分でそれに単独で気づく、というよりはツイッターやらニュースやらで言われてはじめて気づくものも多いが、友人から聞いた話で「おや」と思うものも何件かあった。そこで今日はウィルス自体が心底イヤになったから、この状況が生んでくれた(再浮上させてくれた)色んな問題点を論っていこう、と思うようになった。

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勿論、その中でも最優先的なものはといえば、「世界各国の政府制度の違い」というところなのだろう。中国の半独裁主義(半は無用という人もいるだろうが)はもちろん、ヨーロッパ内でも同じ状況に対してこんなにも対応が違うのか、とびっくりすることになった。今日はその点から、ここ一か月を振り返っていこう。

まず私の最近の動向をまとめると、先月の初めにオランダまで行き、中旬に数日スウェーデンの妹の下宿先に居候して、オランダに戻って一週間過ごしてから日本に戻った。この二週間弱の間、かなり世界がひっくり返った、と言っていいほど状況が変わった。そう思うと同時に、あの時はまだそんなひどくはなかったと、今では思う。

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この間、私は日本からオランダ、スウェーデン、そして帰りの乗り換えがデンマークという、四つの国にいたわけだけれど、そのいずれも対応が全く違っている。初めに国民以外に国境を閉じたのがデンマークで、そのせいで私は空港から出れずにホテルも取ることが出来なくて、20時間ほどコペンハーゲン空港で過ごす羽目になった。後から見ればどうってことはないけれど、あの時(二週間前が昔のようだが)はかなり親や自分自身の不安をも押し切って決断したのだ。

デンマークがその処置をとったのが、3月20日ごろ。ウィルスが発生した中国の隣国がそうしたのが、つい先日。スウェーデンとオランダもその間らへんに観光客に対して閉まっていった。ヨーロッパ全土も閉まり、私が使ったSASやKLMなどの航空会社が危機を受け社員の90%ほどをも解雇したのも、この時期。ちなみに、21日の前に日本に入国したため、検査はおろか、そもそもコロナという文字も、成田空港では見当たらなかった。この差に、私はひたすらたまげたとしか言いようがない。

けれど、日本と中国が隣国というのなら、陸でつながっているデンマークスウェーデンもまさにそうだ。その割には、ほとんど完全にロックダウンしているデンマークのに対して、スウェーデンはヨーロッパ最後の砦とでもいうように外食がまだ許され、事実上ロックダウンしていない国である。向こうに残った妹の伝だと、国民の一定数ははそれを疑おうとしない。人口のわりに面積が広い北欧だから生まれた状況かもしれない。

かくいう私は、オランダで「外食店閉店命令」を聞いたのは、日本人の友達と空港に向かう電車の中だった。彼女がオランダに来た夜、美術館閉館命令が出てオランダにいる間も間の抜けたものになったが、後から思えばまだマシな方だった。スウェーデン同様、日本も長い間外食の取り締まりをやってこなかった。

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これらの違いって、どこから生じているのだろうか?小池知事が「ロックダウンができない」という発言をしたのかしていないのかという議論もなされる中、日本を筆頭に、世界各国がまさかこんな状況になることを予想していなくて、そのため法整備の面でも全く不備というしかない状況になっている印象を受けてしまう。

集団の自由を侵害するから、ロックダウンはできない。法律的には感染した人全員を入院させなければならないから、検査を控えめにしか行わない。埃をかぶっていた法律が、誰もが当たり前と思っていた法整備が問われるのも、考えようによっては当たり前かもしれない。

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法律とは、常に後発なものである。犯罪が起こってから、何が罪で、どれほどの罰が相応か、を考えるに至る。この新型肺炎という状況も、全く新しいからこそ、今までの法律ではまず対処しきれない出来事が起こる日常だ。その点からいえば、いくぶんは愚策が出てくるのも当たり前じゃないだろうか。

医療の現場はもちろんだけれど、人権を損なわない人道的なやり方で、感染者を抑え、且つ収束後に経済的活動を損なわないようにする、ということはまずで以て無理が多すぎるのだ。政治家が今直面しているのは、そういうことである。

その状況を理解しているとはとても言えないが、その輪郭が見えただけでも空恐ろしくなり、ただただ必死に一所懸命にやってほしいと思う今日この頃である。ただ、各国の対応がずれているのに対し、ウィルスは一律である。むしろウィリスをつかさどるルールが簡単であればあるほど、感染者が増えるのだろう。

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先日からアメリカの新聞などでも投稿しているハラリ先生の言だが、人間を人間たらしめているのは「協力できること」なのである。バラバラのルールで、国際化になったバラバラのアイデンティティーでは、到底全勝は求めない。僅勝(という言葉がないなら造語ということで)がせいぜいである。人類の敵ともなりえるウィルスが、そのように全く見られていない、という状況が問題である。

政治家に一生懸命頑張ってほしいのはもちろんのこと、「なんのため」「誰がため」に頑張るのか忘れないでほしい。その答えが「日本人」なら、恐らく貴方とは分かり合えないだろう。そんなスケールの話ではない、と私は思ってしまう。日本が、とか、ヨーロッパが、とかを言っている場合ではない、とたまには叫びたくなる。その叫びが、こんな風にたまには文章を書く原動力となるのが、せめてもの救いだろう。

しかし、それはまた別のときの話。

眼差しの話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ。

私は今まで数年間(実際何年かはわりとどうでもよくなってくるぐらい)日本で生活してきた。東京に着いてからも、そろそろ一年間が過ぎようとし、去年一人で見た桜をできることなら今年こそ誰かと見あげながら一杯やって楽しみたいと思うごろになってきた。

そこでふと思いついた疑問が一つある。日本で、外国人として住むこと、とは。

オランダで私が生活してきた20年余りがある。日本で生活した2年以上、3年未満がある。この非対称もさることながら、その間は私も人間として成長したりしなかったり、変わったり変わらなかったりしている。自分の内面の話だけでいえば一つの繋がった物語がそこにあって、記憶しながらも、自分の都合のいい方に取捨選択して、今の自分があるのだ。

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ただ、外からはそんなことは分からない。初めて会う人でその日体調悪かったりするのもそうだけど、たまたま洗濯に時間を割けず靴下が違うとか、その日に限ってコンタクトではなくレンズしていたり、その前日髪をバサッと切ってもらってショートになっていたりしても、それが第一印象なら向こうから見たらそれがあなたである。

もちろん、そんなことを意識しながら生きている人は少ない。多くの人は他人に関して割と無関心である。「世間」を気にしていても、この人から見て私はどうなの、という個人からの見られ方というのは、自分がその相手を見て、初めて見られていると実感するのが普通である。幸か不幸か、大体の場合、相手のことを本気で見ようとしない。

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先日、以前から行きたいと思っていた神楽坂の日本酒バーに行こうと、最近再会した大学の先輩を誘って出かけた。その先輩が仕事で忙しいこともあって、人気店だから私が電話してカウンター席を予約した。この点電話は楽で、個人を相手にしても、まず「見られている」ということから解放されている。ただ、自分の名前を言う時、先方が何べんか、聞き返すことがあった。私は日本語は割と達者な方だけれど、活舌じたいはあまりよくなかったりするから、それが原因と思って、その電話を切った。

けれど、後日実際その店に行って、最初は先輩と二時間ぐらいオランダ語で話してからお互い酔いも回って店員さんの女性二人とカウンターの他の客と日本語で絡むことになって、その時予約を受けた店員さんがたまたまいて、私が電話をした本人ということに驚いていた様子だった。いわく、最初は日本人かと思ったら、名前を聞き取れずに動揺して何度か聞き返して失礼しました、と。

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この場合は酒も入って、ということもあって気にしなかったけれど、確かに話し方と見た目や名前には大きなギャップがある。まさかこの人が、というのは一般的な感覚だ。大学に入学したころに流行った風刺動画で、定食屋に黒人や白人数人とアジア風の一人というグループが店に入ってきて、店員が日本語で話してくる黒人を無視し、日本人に見えるが日本語が通じない一人に執拗におーだを聞く、というものがある。ここまでシビアではないだろうけど、日本語がある程度できる欧米の人ならどこかで経験していることだろう。

ただ、ここで敢えて、そういう「差別」のような話を避けて、お互いの認識のずれの話に焦点を当てたい。不肖欧米代表として言わせてもらうと、私たちにも非がある。というのは、日本で日本人と社交を行う時、我々はたまさかズルをしたがる傾向にある。私は日本語ができるのに、この人とは話が合わない。誰も相手にしてくれない。友達が作れない。特に長い間ひとりでいると、こういう僻んだ考えになりがちなのだ。

でも、考え見たらそんなのこっちの都合で、向こうがわざわざ話しかけてくる理由もない。勝手に消極的な態度をとる、というのは日本に来る外国人(もちろん、誰しもがこうだとは言えないまでも)の悪い癖である。だったら自国にいて同じ態度で友達を作ろうと思うもんなら、痛い目に遭うのがオチである。

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人間関係において、恥ずかしい気持ちをしたり、相手に迷惑をかけたりすることはつきものだ。避けては通れない。私は過去にも今でも、日本語ができない、自分に自信がない、話すことないと、理由を並べて話してみたい人、面白いと思った人から顔を背けてきた。これからも偶にそうするだろうけど、少なくとも「日本人」「外国人」の差を理由にして逃げることにそろそろ終止符を打ちたい。

私は人間。向こうも人間。話せばわかる。分からないときは、人間同士の相性の問題であって、向こうが日本人だとか、私がオランダ人だとかほとんど関係ない。こんなの当たり前のことで、筆を執らずとも読んでいる人々にとって飽きられることもあるだろう。

けど、これをまだまだ当たり前のこととして考えられないあなたには、この文章を読んでくれたことで少しでも次他人と対面する時に思い出してほしい。どんな仲のいい友達も、他人からだ。たまには進んで恥をかかないと人生なんてつまらない、ぐらいの勢いで私も進んでいきたい。

しかし、それはまた別のときの話。

とりあえず、の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ。

このブログを立ち上げた時当初の趣旨としては、毎日とりあえず一つ話題を決めて書くことだった。今となっては、話題を決めることがいかに難しいことかということを思い出す。今日は、とりあえず書くことにした。ゆえに、書く。自己完結的である。

昨日一昨日、大学の一個下の後輩が東京を訪れ、一個上の先輩の所に止めてもらったのはいいが、週末が開けばその先輩も仕事があるのでとりあえず私が東京放浪に付き合った。ただ何も決めていないし、こっちのアイディアの多くがボツにされ、彼女の「とりあえず」に会わせる結果になった。この場合はつまり、カフェ巡り、文房具巡りである。新しさもある中、本当に人それぞれ思考経路が全く違うものだと思い知った。

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この「とりあえず」という言葉に、私は日本語をやり始めてから(習ってもいないし勉強も少しニュアンス的に違うからこう表現させてもらうが)ずっと翻弄され続けている言葉である。日本語は確かによく言われているようにハイコンテクスト、つまり文脈が非常に大事な言語である。これだ、という理由は多分ないけれど、いずれにせよ今我々が使う日本語は、あいまいな表現が非常に多く含まれている。

その代表格としては、とりあえずがある。理由は特にない。適当だ。一番手っ取り早い。一番手間がかからない。一番負担がない。熟考することももちろんないわけでもないが、人間の判断の多くは、とりあえずで決まる。広義にも出てきて、数年前に流行ったカーネマン先生の『ファスト・スロー」という著作が人間のこの二つの思考経路の分別を説明しているが、要は上の通りである。とりあえず、ビール、とはこの習性を洒脱に表現しているのだ。

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なので、今日はいつもよりさらに書くための敷居を下げるために、とりあえず話題を決めるのでもなく、とりあえずを話題にするのである。まったく、人間とは怠惰なものだ、という見方ももちろんできるけれど、そもそもこんな風に分けて考える仕組みが人間の精神にあるということを思うと面白いものだ。

問題があるとすれば、それはこの習性の存在に人間が気づいてしまって、それ込みでビジネスをしようとする輩が現れたことである。といってもそれは利益が取れるならビジネスになるという、資本主義上の心理から見れば当然の成り行きではあるが、どのみちやっかいな事態である。

CMしかり、本の表紙然り、そもそも優劣を決める第一印象そのものを操作しようという点では身のこなしだったり綺麗な服着たりすることも「とりあえず」いい印象を持ってもらうためであるといえる。例えば白衣を着て、眼鏡をかけたら賢そうに見える、ハロー効果もこのような精神的習性を表した概念である。

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ただ、その習性の存在さえ知っていればただただ悪い方面に働くはずもない。なんせ、いいか悪いか決めるのは人間だから。利益のために利用する外部の人もいるとして、我々一人一人がその習性の存在を知っていることでできることもある。つまり、自分が「とりあえず」やることを、社会的、また自分のキャリアパス的によい方向に誘導することである。

物事をなにもかも熟考したりしたらそれこそキリがない。中学校の頃、哲学かぶれで正直言えばニヒリズム系の中二病だった私でもそれぐらいは分かっている。だけど、日常のちょっとした工夫でやりやすくなることも結構多いだろう。部屋に日常的に使うものを置くだけで結構変わるものだと、多分だれしも実感がわくものだと思う。それを見えるようにすることで、無意識に「見る」という行為を行っているだけで、普段以上の負担なく「とりあえず」が生まれる。こんどこそ、いい方向に、だ。

さて、私の毎日をどう工夫すれば大学院入学から充実した生活が送れるだろうか。今からでも考えておくことだね。まずは、アルバイト先の上司がしたように、本棚を増やして自分が持っている資料を可視化することから始めてみることにしたいと思う。

しかし、それはまた別のときの話。

 

スプーン理論の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

読んでくれている皆さん、今日もお疲れ様です。今日はそんな挨拶から始めていきたいと思う。そして言いたい。あなたが今やっていることは、当たり前ではない。あなたはあなたで必死に日常を生きている。必死に、という認識はないかもしれないけれど、人間というのは自分の体の状態を維持するために食べたり飲んでそれを糧にしていると同様に、精神的な糧を元に精神安定を維持するためにもなにかしらのストックが消耗されたり補充されたりしている、と思うことはある。

もちろん、そんなことには科学的な根拠があるわけではない。科学に言えば、すべてはおそらくほとんどがドパミンなりアドレナリンなりのの化学物質の循環で精神安定が決められたりするし、身体の作りや生きていく上で起こる老衰でそれがうまくいったりいかなかったりする。本来なら、そこに「精神的耐久力」みたいな概念が成立するはずもない。

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ただ、身体と精神の関係はそう簡単ではない。全部が化学物質だとしても、我々の認識によってその物質の循環に何らかの影響を及ぼすことは可能なのかもしれない。それすら否定するほど私だって達観していないから、最近そう思うようになった。状況にもよるし勿論限度はあるにせよ、行動やそれに対する反省的態度で、人は自分の精神安定を左右することはできるはず。できなかったら、責任とか、色んな概念が成立しなくなって困るしね。

私も専門ではないので勝手な解釈で恐縮だが、去年からずっと考えている「スプーン理論」に照らし合わせて考えてみることにする。この理論は、非健康的な人(非常にあいまいな表現だが)が生活を行う上で一般人とは違う条件でいかに一般人らしく一日を終えることができるか、というクリスティーン・ミセランディノという人が提唱したある種の思想実験である。

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彼女はルプスという病気を患い、「それって実際どんな感じ」と友人に聞かれ、咄嗟にテーブルスプーンを使って説明を試みたことに由来する。元々の例は病気であるが、その後は障害者、特に「見えない障害」などが例として使われるようになった。私は特に自分が何らかの「病気」を持っているという認識はない。ただ、小学校で同級生で腕の片方に指がないクラスメートはいた。必然的、読んでいるうちに私は友人の方に感情移入することになった。

このエッセイの中、ミセランディノはテーブルに12のスプーンを並べ、友人に自分の日常を事細かく語らせた。そして、一一の行動、もしくはその累積を、「一スプーン」という単位にして、その一日の体力のバロメーターとした。すると、12スプーンでは足りない、と友人は訴えるが、もちろん病気を抱えるミセランディノ自身の方が余計に体力を使い、それ以上に少ない枚数で毎日生きている、と説明する。

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エッセイはある程度文学的ではあるが、その骨子は大事なことを浮き彫りにする。まず、我々の「健康観」が歪んでいる、ということだ。人間が社会で生きるうえで、時間的・空間的縛りを受ける。仕事や習慣によって生活空間・時間は違うこともあるが、往々にして似たり寄ったりの生活をしているのが現代社会である。

現代社会の多くの都市病理と呼ばれる生活習慣によるそれぞれの「病理」は、我々は生まれた体も微妙に違う、育ちも違う、運動量も脳の使い方も違うのに、それをひと固まりにして「一般的」と呼ぶことによる。そして、「健康」であることはつまり、その「一般的」を恙なく行うことができる状態のことかもしれない。スプーン理論を唱えミセランディノから見たら微妙に論点ズレていないこともないだろうけど、「健康」でありつづけることに自覚的であることの大事さというのは彼女の言い分に近いのではないだろうか。

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これは医学的な意味での「健康」は違う。病気とは物理的なものだし、つまり、社会的な観点から見た「健康」である。スプーン理論というものは、我々が毎日行っている行動を反省的に見、それが自分にとってどれぐらいの負担になっているのか、一つの指標になる。とても主観的で一貫性のないものだが、考えないよりはましであろう。大事なのは、自分の疲れ度合いを数値化し、可視化し、意識化することである。

朝起きて、今日はこれぐらいやろう、というコミットメントをするのに似ているとも思う。自己認識は、精神安定のための第一歩である。そして、自分が今精神的に不安定になっている、ということに気づけば、行動に移すことができる。朝の満員電車に乗るのが必須なら、せめて座れるために早めに家を出るとか、いかに自分の日常の負担を自分が抱える程度のものにできるかを考える。

社会の「健康観」その者を変えることは、なかなか難しい。働き改革の記事をいくら書いたからとて、こんなブログをいつまで書いたからと言って、変わらないときは変わらない。ならば、人間が自ら今の社会に順応できるためのツールを与えるまでだ。スプーン理論は、そんなツールの一つであると私は思う。なにより、人間というのは自分で何かを決めることで自信がつくものだ。

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もしかすると、自己決定の実感も化学物質によるものかもしれない。けれど、それのどこが悪いのだ?自分の体がそういうものに支配されているのなら、自分から逆に支配するまでだ。感情があると言っても、それに全く規則性がないわけでもないし、生きていれば自分を知ることになる。その知識を生かせばよい。

実生活は「さざえさん」の世界ではない。自分にとって何が「健康体」なのかは老いていくことに連れて変わることだ。我々にできることは、そのことに自覚的であることのみだ。個人的には「自覚」という言葉が非常に懐かしい響きで心地いい。

しかし、それはまた別のときの話。

 

フェイクニュースの話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ、

去年からメディアにどっぷりはまり、もちろんフェイクニュースの問題もレポートで何度も出てくるものだ。先日香港について書いたものもあるにはあるが、まだまだ公表するほど考えが固まっていないので、今回はNHKのドラマでフェイクニュースをテーマにした2018年の「フェイクニュースーあるいはどこか遠くの戦争の話」を見た感想を書こうと思った。現在もどこかで起こっているフェイクニュースがあり、それが実害を生んでいることを問題提起している作品となっている。その点は非常に評価するべきであろう。

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言ってみれば軽い気持ちで青虫うどんに対して義憤に燃える猿滑という中年のサラリーマンはある意味善意ある市民である。確かに、彼のうどんに青虫が入ってしまっていた。それをフェイクニュースたらしめるのが彼がその「証拠」として使う材料である。それはすべて彼を利用する確信犯によって手渡されたものなのだ。むしろ、この確信犯からしたら「誰」がシェアしているのかは問題ではなく、シェアされ続けることでPV数を稼いでいるので、行ってみればビジネスである。悪意が皆無であるが、結果的には主人公たちは苦労もするし、猿滑は離婚し、職を失い、極めつけにホームレスになるという、惨敗ぶりである。

フェイクニュースをなぜ作るのか、それは普通のニュースを作る一つの理由でもある「得をする」ためである。テレビ局でも、企業運営のために広告費で賄われることが一般的で、視聴率にせよPV数にせよ、似たような指標を使って自分が広告をもらうための交渉のチップにする。その第一目的なのは一般的にいえば「企業の維持と発展」である。ネットメディアは新しい業態の為ベンチャー企業が多く、PV数を重視するか破綻するかという二択であればどちらを選ぶのかは明快だろう。メディアによっては本当に利益のためにやるところもあれば、やむなくそうしているところもあって、実際のところ玉石混交だと思う。  フェイクニュースを生業とする気偉業は「得をする」目的が一緒でも、得をする主体は流しているフェイクニュース業者だったり、その業者に依頼する企業なり国家なりである。一旦つくられたフェイクニュースは彼らとは全く関係ない人たち、つまり普通の「人間」によって広められる。我々が今日常を送っているシェア社会においてそれは容易にできることだ。

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インターネットによって発信する、ということが民主化された。それは一見すごくいいことのように聞こえるが、フィルターバブル現象が生まれやすい環境であるという面から見て非常に危険な状況になりかねない。ドラマの後半では右派と左派、両方のまとめサイトを運営する神崎という登場人物がその最たる例である。フェイクニュースの最も大きなことはつまり対立である。インターネットというメディアの特性から、または現代人の生活習慣から、人々が日々吸収する情報が偏る一方で、フェイクニュースはそれを煽るような立場に立っている。一番わかりやすいでいえば、今の香港における対立も一つにはフェイクニュースの影響があると言える。

これだけ言えば大変恐ろしい世の中である。勿論、ファクトチェックという、ニュースの真実性をチェックする機関も存在するけれど、これにも色んな限度がある。それを一言でまとめるならば「ファクトチェックは誰の届くのか?」ということになる。ネットメディアはPV数重視になるような経済的状況の中でただでさえファクトチェック記事を載せるのは不効率だが、載せたところでどれほどの人が読むだろう。この「報道企業の運営困難」「メディア利用の傾向の変化」という二つの要因が、お互いを深刻化していく過程でフェイクニュース産業に拍車をかけていると言っていいだろう。

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個人個人が自分で考えて意図的にニュースに触れる、もしくは自分のために最適化されたニュース環境を作るかという考え方もありえるのではないだろうか。これにはこれで問題点は枚挙にいとまがないが、デジタルリテラシーとはつまりこういう考えに近いのだ。イーストポストの若い社員が母親が在日コリアンの三世と北川景子演じる主人公の東雲に告白し、自分からフェイクニュースという存在に立ち向かおうとしているのがデジタルリテラシーに向けての一つのやり方と感じた。

もちろん、ドラマであるが故の大規模なモノガタリになっているのも否めないが、こういう大きな傾向を見せるためには話を大きくした方が伝わることもある。つまりフェイクニュースもちゃんとした調査報道も、伝わり方はある程度一緒なのだ。届いたものが一緒に見えているのに、作っている過程の方は調査報道が時間が掛かってしまい、広告収入以外に運営費を賄えるための財源がなければ長続きできないという図がパターン化されていく。  ドラマの中盤でもわかるように、青虫の件に関しては、ある程度は本当であった。フェイクニュースとして広まりやすいのは、あいまいな情報の中に真実の一点を見つけ、その一点で以て全体が真実と主張する、簡略化された思考を促すものである。

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その連鎖を断ち切るには、定期的なファクトチェック機構や調査報道をする企業への投資と、ネットリテラシーへの啓蒙活動である。その二つを並行して行ってこそ、フェイクニュースと対抗することができるかもしれない。  最後に添えると、このドラマを見て実感したのが「インターネットだからフェイクニュースが増える」というわけではない。インターネットがニューメディアであるから、フェイクニュースが生まれやすい温床が出来上がっている。新しいメディアは財源や立場が弱いからポピュラリズムに走りやすい傾向がある。そのため、過去のニューメディアであるラジオやテレビを見ても学びはあるのだろう。

しかし、それはまた別のときの話。

持続性の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

そして、あけましておめでとうございます。今年も、読む人がいる前提で色々書かせていただきます。文章を発信することとは、それを誰かが読むということを考えなければならないが、私の場合はむしろ読まれて恥ずかしいより、誰にも読んでもらえなくて勝手に恥と感じる方が多いのだろう。

まぁ、御託はそれぐらいにして、今日は私の抱負の話をしようと思っている。2020年の新年早々、3日中二日も飲み屋街に繰り出しており、そのおかげかせいかといわずに、色んな感慨にふけっている。その中でもとりわけ大きいのが、去年から考えている「持続性」の話である。

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昨今ではこの地球が何もしなければそろそろ終わるから「危機だー」と大声で騒いだり、道を防いだりする人がいよいよ多くなってきた。私は環境学舎ではないので、アカデミストとして論文が掲げる名大の解決とその方法論にケチをつけることはできても、今から自分の研究や調査などできやしない。その点でいえば、メディアとアカデミックな研究もそう変わるものではない。

今通っている大学では「SDGs」なるものが大層取り上げられており、うわさに聞く程度だがどうやらうちだけではない。SDGsは理想であり、それを現実にするのは各国の政府や自治体、企業というので大層都合のいい話ではあるが、まず掲げれば糾弾されることもない。ただ、いささかの岩化案を覚えざるうぇない。去年よくニュースに上った「吉本」もSDGs関連のプロジェクトにかかわっていたと聞けば、些か皮肉を含んだ言葉を発信してもしょうがないのだろう。

だから「危機だー」なのか、「危機なわけないだろう」というのは、私はメディアや論文を読み比べて判断するしかないのだ。ただ、それ以前に基本的な生き方として「危機意識」を持っている人々が掲げる「持続性」という理想には、結局共感してしまうのは自分の性なのだろう。

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持続性はけっして環境だけの問題ではない。人生における「成功」の一つの目印であると私は思う。会社というのは存在するのが当たり前と思われているものだが、やはり我々現代人としては「いつなくなるか分からないもの」という二面性もある。広報論の教科書にも載っているようなことだけど、会社というのは存在するだけで、持続するだけで世の中に貢献をしているものだ。倒産しないことが人類の発展に貢献しなくても、人類の維持(意地?)には貢献していよう。

それを言えば「友情」も「愛情」そうである。どちらも「絶えない」から美しいと、我々は思う。友情が続くから「再開」がありえる。社会人が命綱とする「コネ」だって、時間的に持続していなければ作る意味もない。持続性とはつまり、未来への希望であり、明日があることを確信することである。

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自分が自分であり続けるため、自分がより自分の理想に近づくため、持続性というのは必要な概念かもしれない。言ってみれば「精神の一貫性」だ。人の意識も毎日毎日成長してゆき、変わってゆくものなれど、そこに不変なるものを望むのもまた人間なり。西田幾多郎などは人間の意識の持続性を否定するようなことも述べているが、私は自分を弱くてバカな人間だと思っているので弱くてバカなままで持続性を冀い続ける所存である。

新年の抱負としては、この程度だ。報道やジャーナリズムとは程遠いけれど、今一度はこのブログにおいて自分の好きになったこの言語を用いて思う存分を語ったのである。

しかし、それもまた別のときの話。

人権の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

日本に来て、受講している授業が全部面白くて、ためになっているかといえば、それは違うということになる。けれど、時にはものすごく刺激してくる講義もある。元々自分の中で培ってきた価値観や、最近読んだ本の内容など、色んなものが現在の自分の意識内にある。それに対し、私と同じニュースを見て、同じ傾向を見るが、それを全然違う立場から見る人がいる。違う結論に行き着く人に出会うと、ものすごく刺激的で、大学ってこんな場所であってほしいなぁ、といつも思う。

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今日「国際コミュニケーション」という名の授業で特別講義をしてくれたのが、現在エッセクス大学に所属し、国連という立場から日本や海外の様々な大学で講演を続けている藤田早苗先生である。

彼女が取り上げた例をいくつか述べてみると、デイビッド・ケイ国連特別報告者が日本に対して表明した言論の自由に関する勧告、ミキ・デザキさん(ちなみに、今の大学の先輩)の「主戦場」という慰安婦問題を扱った映画、今年亡くなった日本文学者のドナルド・キーンさん、日本における収入格差や夫婦別姓に見るジェンダー・ギャップ、伊藤詩織さんが「Japan's Secret Shame」というドキュメンタリーで取り上げた日本の性犯罪の実態、イギリスのジョンソン首相の衆議院閉鎖の違憲判決、等々。

これらは、日本に住んでそういうものに対して問題意識を持っているのならおそらく全部ある程度知っているものだと思う。私自身は特に社会正義の味方ではないけれど、社会悪の実態を知ろうとする傾向(習性?)は高校・大学の環境からついていて、それが今の自分の情報接種に大きな影響を及ぼしているだろう。もちろん、これはこれでフィルターバブルであって、上の全部を知らない、という人もいるだろう。

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私がここで取り上げたいのは、そういう議論ではない。むしろ、一言で言えば「フレーミング」の問題である。つまり、これらのニュースは、どういう観点から見てニュースバリューのある問題なのか?藤田先生の視点から見れば、これらは全部保護されるべき人権に対する侵害に関するものだから、発信すべきだ、というような印象を私は受ける。その主張を、私は90%ほど理解できる。

ただ、先日から私の考え方を影響しているのは例のハラリ先生の「ホモ・デウス」である。本来なら彼に思い出されるまでもないことだが、人権というのはもとより「ない」ものである。それを藤田さんが、「1948年の世界人権宣言を以て、人権は国際化した」と公言している。これにはいささか反論したくなった。その言葉の意味はあまりにも広大で、ある種の傲慢さえ垣間見せると思ってしまう。なぜなら、批准しなかったアラブ諸国もいれば、批准した割には「人権」という概念を信じているようには見えない国がまだまだあるからだ。

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人権は「人間誰しもが生まれた瞬間から自然に持っているもの」と定義するなら、その概念は少なくともルソーの「自然権」にさかのぼる。保護されるべき権利の幅が広くなったにせよ、概念そのものはだいぶ前からあるのだ。そして、その意味でいえば人権はやっぱり「ない」のだ。人間同士が言語を通じて意思疎通し、両者の脳内にある程度共有されている「間主観的」な概念である。

人権が保護されるべきものではない、と言いたいわけではない。むしろ、人権を守ることで世界がより良いところになるのならそれは大いに結構だ。ただ、「人権のための人権」という理論は循環している。人権が自然にあるから、守るべきだ、というのは理屈としてあまりにも地盤が弱い。70年ほどの歴史で概念として定着してきたのでそもそもなんでそれが必要だったのか、忘れている人は多いし、ちゃんと考えずに育った人もいよう。

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ならば、人権を守る理由とはなんだ。それはつまり、「よりよい社会を形成するためだ」ということになる。人間が大勢集まれば社会を秩序立てるシステムが必要となる。長い歴史を得てたどり着いた「人権」という概念があって、「人権を守ることで社会はより良いものになる」という価値判断がなされるわけだ。

その価値判断の判断材料とは? 道徳的なものだろうか? 諸外国に比べて、人権を守った国の方が経済的に発展している、という歴史的観点を元にした発言だろうか?掘り下げてみれば、根拠を探すのはなかなか難しい。道徳を元でシステムを構築しようとすると、地理、経済や環境などの要素を度外視してしまう。そして歴史的な観点から人権を重視したシステムが成功したと言っても、その経済と環境が今まで通り続くことを暗に前提としているのだ。

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しかし、環境は今危機に瀕している。西欧諸国でも、大きな経済恐慌が十年おきに起こるようになった。資本主義システムに、果たして発展途上国の全部の人権を守るところに来るまで持つのだろうか? その前に、北極の凍解がおわるのではないか? 私はそういうことを思いながら、今日の藤田先生の話を聞いていた。

誰かは言った。資本主義はゼロサムゲームではなく、マイナスサムゲームだと。グレター・テゥーンベリーなどの環境活動家も標榜するように、今の消費量は到底持続的ではないから、もはや「減らすこと」でしか0に辿り着けないだろう。ならば、無暗に人権を標榜する前に、今後の世界システムを構築していくべきではないだろうか。

ハベルマスも行ったように、我々が生きている今だって、「未完全な現代」である。人権を標榜する多くの人たちは、今の世の中は間違っている、と思って立ち上がっているのだろう。それは私もそう思う。ただ同時に「そんなの、当たり前だ!」とも思ってしまう。不完全システムの中において、「人権」というユニバーサルな概念を守ろうとするのは、砂をつかむような作業だ。もしくはトランプカードを積み上げて建物を作るようなものだ。作っている途中で、どうしても下から崩れてしまう。

繰り返すけど、私はなにも「人権を守る意味がない」と言っているわけではない。ただ、人権を守るのなら、標榜するだけではなく、それが守られている世界システムの構築が先決なのだと言いたいのだ。「人権」は生まれた時から賦与される、ア・プリオリで神聖なものではなく、社会の中で生きて担保されるものだ。そのシステムの構築は政府の仕事や国連などの役目にしても、その維持は人間全員の連帯責任だ。

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これからも、人権は侵害され続けるだろう。けど、「侵害」とは結局言葉である。人権など「ない」、という立場から見れば、それはただ社会システムが我々から見て未発達だから、人権はまだ「成立していない」というだけのことで、何の矛盾はない。無法地帯と一緒なのだ。無法地帯の中にいて法を尊ぶものから先に殺される。無法地帯ではないにせよ、今の日本は「法の統治」が停滞している状態にあり、それゆえ大くの人権問題が放置されている。人権侵害を訴えた先には、いつも法律改正があるべきと私は思う。

法の統治はよりよい社会を作ることで大事なものだけれど、まだ法もない状態で他国から法を無理やり導入しようとしても、定着するまでは時間が掛かる。踏むべき段階がいつくもある。友人の何人かはモンゴルから日本に来て、法律を勉強していて、彼らなりにモンゴルの「法治国家」の形成に勤しんでいる。人権はそのプロセスの中で生まれる概念であって、外から押し付けるべき概念ではない、と私は思う。

しかし、それはまた別のときの話。