万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

神話の話をしよう

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なぜかはわからないけれど、私は昔から神話などが大好きなのだ。育ち方ももちろんそれに関係していて、両親の収入も中の上だったのだろうけど、それでもそうでもない、というのが高校の頃のクラスの大半であった。その中で私はやはり、神話の話を聞くととりあえず胸が躍るのだった。小学校の終わりごろには子供用のギリシャ神話のオランダ訳など読んでいて(Imme Drosという女流作家のものなんだけれど)、権謀術数なオデゥッセイウ、猪突猛進なアキレウスなどの英傑に胸を打たれたものだ。その上に気紛れで人間らしいオルンポスさんの神様の所業など、見ていて面白いものだった。他人事のように「こんな世界だったらいいのに」と思っったりもした。

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この本が恐らく、私にとって神話の世界への入り口だったのだろう。

それは今からしたら昔の話。しかしこれらの話は長年紡がれ、語られ、受け継がれてきた。これは大体大学で友達の紹介で受けてきた「神話論」の講義の受け売りなのだが、神話の原型は大体の場合、難題も受け継がれ、形を変え、成長してゆく「口頭的文化」のようなものだ。そのため、元々すべての神話が実際の昔の王様や猛者の実話、だという学者もいるぐらいだ。昔々、蛇がいて、8つの頭を持ち、嵐の神様に破られた。それとも、狐にやられた。これは勿論置き換えはいくらでもできて、人間同士でも全然成立する話なのだから、あながち頭ごなしに否定することはできない。

それでも、人は神話を作る。ただの8人組の人間では飽き足らず、八つの頭を持つ蛇だという。しかし、倒し方は、酒を飲ませる、という人間的なやり方なのである。それを誇張し、美化し、遠い過去のことと見せかけて、人をだましてきた、という学者がいる。前回紹介した坂口安吾もその一人である。飛騨の国が実は飛鳥時代以前大国で、猛者どもの集う地であったとか、探偵の推理を披露し分かりやすくする。勿論否定するつもりはないが、話はあくまで話である。いつ書かれたのかも定かではない話を一事実として認識した時点で、ことは歪み始める。それは10分前でも10万年前でも一緒で、程度の問題なのだ。

では、神話とはなんだ?なんのためにあるのだ、と聞かれたらこう答えよう。神話とは人間のためにある者だ。紡いできた人のためにあるのだ。どんな文章がそうであるように、自己顕示欲や自分の属するグループへの自慢、他グループに対する優越意識から生まれるものだ。これはしかし決して悪いことではない。それを作って団結し、生き残る人がいれば、それはそれでその時代の掟であって、生きる手段であったのだろう。そして、前述の通り、自己肯定の手段であったのだろう。なら、それは「物語」とほぼ同意義なものなのだろう。

それらの話を、我々は端々ながらも今も引き継いる。その意義を、今ここに問おう。引き継ぐとは何なのだ?敬意を払うとは何なのだ。何かを続けるとは、これらのことを考えて行動することに他ならない。私は少なくともこれをきちんとしたい。

しかし、それはまた別のときの話。