万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

知的財産の話をしよう

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知っている人はおそらく知っていると思うが、筆者は根っからの資本主義者である。生きる人間皆がなにか付加価値を足す方便や技術を持っているか、それを身に着けるようにできていて、その財産と素質をもって我々は人の行為に価値を与え、その行為に対して金銭をもらい、それを人間全員が巡らせる、とこういう世の中に生きている。仕事をしたら金をもらうのは当たり前。そういう考え方は決して異端とは言えないが、グレーなところは探せば、いくらでも出てくる。

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例えば、ボランティア―だ。基本、ボランティアは根本的に資本主義とは相反するところにある。要するに、金もらわずして、ただその行為のため(また、その行為がもたらすであろう結果のために)その行為を遂行する。というのも、こういう言い方をしたら歩くことも息をするのもボランティア―になってしまうから定義というより、発展途上国で働くとか、そういった例を出した方が分かりやすい。

ではどこが資本主義と合わないのかというと、自分が付けている付加価値に対して何ももらわないから、その行為は金に値しない。金は労働に対する褒美と同時に、労働に物理的な価値を付けていることにもなる。それもわかりやすいほどに。ボランティア―で普段なら労働価値の高い行為、例えば家を作ったり、物を運んだりするものをするとしたら、それだけその行為の価値が揺らぐわけだ。勿論一人か二人がボランティア―やったところでそう変わるものでもないが、それが社会現象というレベルになれば話は別だ。アイディアは伝染するからだ。

しかし、一番の問題はいわゆる身体労働ではなく、頭脳労働の問題だ。なにが難しいかというと、そもそも身体労働と比べて相場だとか、給料だとかが決めづらいところである。特に10前まで存在しなかったIT職など、どのような労働行為に対する報酬の付け方をするのか気になるところだ。しかも、社内でそうされているといっても、社会一般ではその常識は共通ではないから労働価値がなおつけがたい。揺らぐどころか、振り子のように跳ね上がったり、また一番下に下がったりする。

前にも触れたが、翻訳はこういう頭脳労働の部類に入るから、私としてもあながち遠い問題ともいえない。出版物の場合でも元々の原料は著者の原稿であって、出版社らはそれに付加価値をつけていくだけだから基本は変わらない。たまに見るべきところなのはその価値の基準をどこから持っていくのかと、それをもって値段や作成工程がどうかかわってくるのかだ。特に何でも無料で手に入れられるデジタル時代では、作る側としてはますます客の横暴を聞き、無意識な願望に耳をそばだてなければならない。

しかし、それはまた別のときの話。