万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

縁の話をしよう

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我々人間にとって、念頭に置くべき言葉はいくらでも思いつく。義なり、忠なり、愛なり友情なり、信なり心なり、その辺に転がっているようにも思う。儒教書を開けば書いてあるし、湯島聖堂に行けば雰囲気で分かるだろう。その上で持論を述べて結局何が大事なのだというのなら、やはり縁なのだ。つまり、つながり。むすび。ゆかりなのだ。
元々私の好きな感じは「絶」だったのだが、これは偏にその時読んでいた「さよなら絶望先生」のギャグセンスがツボだったことに起因するもので、実際これをほかの人に行った時点で変な目で見られるだけだ。その点では、「縁」はむしろ無難だ。

私は、もちろんこれほど日本語書いているのだから日本語を書くことはできる。ということはある程度は日本という国、概念と縁を結んでいることになるが、いつどこでその縁が結ばれたのかと聞かれたら、もはや答えが出てくることはない。小学校の頃、中国人の同級生が書いてくれた「雨」という字は間違いなく人生で初めて認識した「アジアの言葉」だが、そこで日本との縁ができたとは考えにくい。なにせ中国語なのだ。発音しても精々「ユー」であって、「あめ」ではない。

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しかし、縁は不思議なもので、どちらかと言えば結ぶものではなく結ばれるものだ。曰くでいうと結ぶのは神無月の出雲の神だという。「袖触れ合うも多生の縁」とはいうが、これを見てもこの世で円を結んだのではなく、やはりすでに決まってあった縁を結ぶ形なのだ。個人的には自分や他人の行動力を非常に大切なものと考えており、だから宿命論などというものは考えたくはないが、こういう考え方もあろう。

さて、縁とは不思議なものだ。言語学的に見ても可笑しな言葉だ。以前に京都にいたころ、古文の講義で「古い言葉の語源を調べてください」と言われ、実際「ゆかり」という読み方を中心に調べたのだが、「えにし」「ふち」「へり」「えん」「よすが」など、凡そ一貫性のない大和言葉が一緒に並んでしまうわけだ。違う言葉があるということはおそらく使い分けられていたのだろうと推測されるが、実際に同じ時空間で使い分けたかはまた別の問題になる。しかし、これだけ読み方が残っている言葉はやはり珍しい。

だから私はやはり「縁」は大事なものだと思う。糸のように絡まり、何年たってもまた思わぬところでつながったりすると息をのんでしまうほどだ。自分の人生が映画のワンシーンに思える時ほど、生き生きとした瞬間はおそらくない。そういう縁を大事にする人間に私はなりたいと思う。人との縁も、好きな音楽や娯楽との縁も、場所との縁も、どれでもいいのだ。今日行った飲み屋に二年後、十年後にまたたどり着くことがたまさかあったのなら、こんなにうれしいことはないだろう。縁が元に物語は紡がれる。そしてその縁があれば、またつながるのだろう。それはきっと、素敵なことだと思う。

しかし、それはまた別のときの話。