万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

先輩の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

今日は喜ばしいこともあり、機嫌は上々ではあるが、いろいろな人に連絡してみると、自分の人生がどれほど「先輩」の肩の上に立っているということを、改めて知らされている。勿論、大学の先輩だけではない。親もある意味先輩ではあるし、それこそ自分より先に何かを成し遂げた人々全員が、ある意味では先輩なのだろう。先に行くものだから、我々は先輩と呼ぶ。だからこそ、先に行かないような先輩もあまり先輩とは呼びたくないような私だけれど...

日本学科に入ってきて、色んな先輩に出会ったものだ。オランダには元々上下関係などというような確固たるシステムは無かったわけだが、かりにも体育会系の形をしたよさ恋サークルに属していた私は様々な先輩と対面することになった。今でも「すごい」と素直に思える先輩にも出会えたし、一つの側面ですごいと思っていても、別の見方をすればだめな人も勿論いる。人間一人を見てどの面においても先輩、なんてことは珍しいものだろう。

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日本語の先輩、という言葉は限定つきで、あくまで「部活内」「会社内」「大学内」では先輩扱いされる。だからこそ動機と居酒屋で集まって飲んでいたら、先輩の悪口なんてもってこいの話題なのだろうけれど。一年生の私はそれこそばかみたいに先輩に一目ぼれしたりして典型的な後輩面をしていたのに、いつの間にか自分が先輩になっていた。

変なもので、自分に「先輩」という二文字の肩書きが付いた途端、何かを頼まれやすくなるようだ。2年生は半分ぐらい日本で過ごし、それど頃でもなかったのだけれど、今年は卒業目前にもかかわらず、一年生の授業を教えたり、2年生の留学相談などを受けたりして、なぜかいつの間にか積極的に下級生の相談を受ける体勢になっていた。一年生だった頃の先輩もこんな形だったのかな、なんて思いながら。

先輩というちいだけでは行かないにしても、なにかの分野で知識を持っていたら、それだけでなにか伝授することはできよう。自分で適当なことを言っている、なんていっていても、それを以ってして新しい発見ができるようになる人がいるかもしれない、ということを私は先輩になってはじめて気づいた。後輩に言われて初めて気づく「常識」があることを、先輩になってはじめて気づいた。これではどちらが大切なのか、わからないのだけれど。

それよりも一番戸惑うのは、年だけ上で先輩扱いされること。言われて初めて気づく「自分の特殊さ」がどこかにはあるのだろうけれど、文字通り気づいていないものだからそんな扱いされる覚えは無い、という拒絶反応を起こしてしまったこともそれなりにあった。特に、日本での部活の場では、4年ほど年下の子と同期になったりして、これではどうしようもない。

けれど、実際のところ、だれもが誰かの先輩なのだ。付き合って学ぶことが全く無い相手など、この世にはないと、そう思って私は生きているつもりだ。もちろんそれは強がりで「この人は無理だ」と思うこともあるけれど、そこを乗り越えて見方を変えた先に、新しい発見があることを、やはり私は信じたい。

しかし、それはまた別のときの話。