万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

またゲームの話をしよう

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さきほどはツイッターを通じてゲーム談義にふけっていたら「こんな気軽に、海外の人とフリーゲームの話を話していると言う状況含めて、よい時代になったものだと思う」と先方に言われて、これは少し反芻する価値ある発言だな、と思ったもんで、どうせならこの場を借りて話してみたい。

ゲームと言う存在は私の世代(まあ、せいぜい90年生まれ以降の方)にとってもはやあって当たり前のものだけれど、思うことに初代マリオなんて初登場が1981年で、長くともゲームの歴史は50年程度か。私たちが子供のころ親しんでやっていたゲームは、今を起点にしてそのちょうど中間だから、まさに「ゲームの最盛期」を生き抜いた世代といえるだろう。

以前読んでいた東野圭吾先生の「百夜行」を読まれた方がいれば、あの本にマリオと寸分違わずのゲームの海賊版がでてきたこと、覚えておいでだろうか?サイバーセキュリティーという概念なんてない時代だから、その頃ある程度プログラミング言語さえ習得できれば、本のゲームさえあればいくらでも海賊版作れたんじゃないか、という恐ろしい可能性を示してきたわけだ。まあ、それがどれほど真実だったかは分からないし、単に東野先生の取材不足と旺盛な想像力の産物かも知れぬが...

ともかく、ゲームなんてのはその程度のものだったのだ。多分、実際作る会社も、海賊版を作る側も、技術面で言えば大して性能が変わらないんじゃないか、なんて思ってしまう。なにせプログラミング言語がまだまだ定着しつつある時代なはずだから。

そんな時代から、我々90年代っ子(代表になったつもりは勿論ないが)はスーパーファミコンから初のハンドヘルドゲーム機のゲームボーイ、さらにDS、WiiPlaystationなどの最初版をやって育ってきた。同時に、ゲームは物理的なプログラムが書き込まれた「もの」より、変化自在な「データ」という形を取り、世界どこでもあっというまに普及できるようになった。これは勿論インターネットの普及と二人三脚のように発展したようなものだから、インターネットを外しては現代のゲーム史を語れまい。

しかし、そこはあくまでゲームのメディアとしての歴史の話であって、内容をすっかり置き去りにしていることはすでにお気づきだろう。ゲームは数百行のプログラムから数千、数万、数億にとんとん拍子に増大し、今まで本でしか可能ではなかった「創造」の仕方が可能となった。テレビやラジオも勿論たいそう素晴らしいが、あくまで現存のものを「写す」ものであって、新しいものが作れると言うわけでもない。その点で言えば、アニメもゲームも一緒の根を持つ、ということになる。もっとも、アニメは別の方法で創造がすでに行われており、途中で電子に切り替えただけなのだが。


What is a Game?: Crash Course Games #1

それに対して「ゲーム」とはどこに根を持つのだろうか。上の動画シリーズ(英語にはなるが)はいわばゲーム史を扱うものでこの質問にも一応答えている。個人的に発見が大方ので、ここに張っておくことにしよう。ただし、念のためこの下に自分の考えも述べておこう。

一つの根を持つよりは、絵の創造、音楽の創造、文章の創造と伴う物語の創造、様々なやり方がプログラム言語という新しい言語を使って文字としてだけではなく、視覚的、聴覚的に経験できる形に仕上げた。それが全部ここ五十年の進歩だと言うことになるのだから、我々が思うよりもずっと、ゲームを作る、創造することは大変素敵なことではないだろうか。

しかし、それはまた別のときの話。