万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

自己分析の話をしよう

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生きていて誰しもが、自分は何者だという問いをしてしまう時はあるだろう。いましていなくても、世間一般としてこれが意味のある問い、問うべき問いであるというのは当たり前として思われている。これはどちらかといえば個人主義的な考えで「自分は誰だ」という問いに「自分は自分であって他の誰でもない」という強固な前提があるということを忘れてはいけない。

自分が何者であるのか、自問自答し、自己解析するのはいつもやっていることではあるが、いつすればいいのかはどちらかというとパターンが決まっている。日本で言えば特に就活の時期、エントランスシートを書くのが一番いい例だけれど、とりわけ学生から社会人、失業から転職までという転換期が自己解析がもっとも当たり前と思われている時期だろう。

そこに旅行という要素が含まれていたら最高だ。Lost in Translation、Eat, Pray, Loveなどの洋画が、この自分探しのたびにはっきりしたイメージを与えて、それを普及させたといえる。旅して人が換わったように戻った、とはよく言われるし、実際変わったという人間はそれなりにいる。世間一般で正しいと思われることをすれば、当然それを批判する人は少数派だ。

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しかし、自己というやつはそれほど簡単な物ではない。最近社会心理学、とりわけ社会的影響という学問の本を手に取り、自分なりに処理しようと、今日投稿しているわけだ。その中には自己形成・自分の態度や性格がいかに変わるかに興味津々だ。その中で強調されるのは帰属理論というのが興味深い。私は元来、普遍的自己という物が基本的にない、という主張を持っているし、それが自分の性格の一部であると信じてやまない。そして、帰属理論というのはまさにそこを着く。

これが自分、これが自分ではない、という単純な区分で人間の性格はできてくるんじゃないだろうか?自分が男だから、一般的に男と思われるものであるべき。また、自分がやさしいと思うのなら、世間一般の「優しい人」を見て見習うだろう。言語的な置き換えができるのは世間一般がそういう言葉を形成し、使っているから、自分の中でその言葉を世間一般の通りに演じていなければ、やはり到底できたものではない。

勿論、世間一般に背を向き、自分自身の優しさ、正しさを求めるのもよい。しかし、今まで他人を見て言葉の意味、態度の意味、役の演じ方を覚えた経験がある我々はそうそうその役割から脱出するのは難しい。それこそ、荒海に飛び込むようなものだ。そのたび、世間一般とずれるから、一人になってしまう。結局は人間は何かに帰属して自己を形成するというのなら、長続きはしない。最終的には、多の中の一でありたいのが人間の性だろう。その多がどれほど多くの人間を含んでいるのを別にして。

しかし、この帰属理論には二通りのあらわし方がある。自分の中にある自分という物があると同時に、他人もまた自分を見ている。他人が行動をするとき、それが状況的にやむを得ず行われた行動なのか、それともその人の中で自分の帰属意識があらわになったからこその行動なのかは、勿論外から見えまい。大方、この帰属意識が生まれるのは、その行動をした後なのかもしれない。

状況的に同じ行動を幾度となく続いてやっていると、それがいかにも自分らしいと思える経験、読者諸君にはないだろうか。自分の例を出せば、最近よくフムスを買ってしまうのだけれど、それはもしかして自分が心のどこかでこれが好きだったからじゃないのだろうかという気がしてきた。この後付こそが、帰属理論の訴えるところ。自分を形成する後付な私、私にとってそれは日本だったのかもしれない、と今思うとはっとするね。

しかし、それはまた別のときの話。