万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

隣の芝生の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

今日は特に話題が思い浮かばないものだから、久しぶりに徒然と書いてみることにしよう。そこでぼんやりと浮かんだのが、「隣の芝生がより青い」というせりふだ。今日の昼、面接に向かう道がまさに芝生が青々と茂る場所を通っていて、自分の近くにこんな清々しいところがあることのにまず驚いた。

けれど、思い返してみればその場所は元々そこにあった。誰もいない森の中で木が落ちても、その木は木のまま、それが引き起こす音波も、誰の目に届かずとも音波だ。この有名な思考実験と上の格言をつないで見ると、哲学的な禅問答などではなく、美意識、価値判断の問題になってしまうから不思議だ。

人間はある意味、習慣の塊のような生き物だ。「四十を過ぎると、男は習慣と結婚する」というが、40まで待たずとも、老若男女誰しもが習慣から抜け出すことができない。けど同時に、我々は未知なる物に興味を抱いてしまう。日本に抱いた興味は、今までの私の生活と結びつくのが困難だと、自分では思っているけれど、思わぬところでつながっているかもしれない。

隣の芝生が青く見えるためには、まずその芝生を見る必要がある。自分のすぐそばに、自分の知らない世界がある。それは元々自分が自分の生活空間だと思っているその空間の中にあるからこそ、ある程度の親近感がある。日本という国を知らなければ、日本での生活を夢見ることもない。同時に、田園風景の記憶が少ないのなら、それを思い出すこともそうそうないだろう。

ただし、人間の記憶は意外と勤勉だ。覚えていないと思っていても、無意識のうちに覚えていて、勝手に親近感を覚えることもある。3歳のときに住んだ町の風景を思い浮かべることができなくても、20年後にその町を訪れたらおそらく懐かしい気持ちにはなる。

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今日私が走ったあの田舎道、その道端の木々、のろのろと歩く牛や馬、喧騒で喧騒を呼ぶ鶏の牧場、帰り道に通った新築団地の間を巡る運河を、私は知っていた。あの中学校の夏休みの一ページは、決して消えていなかった。今日再び見て、私はそう確信した。

隣の芝生の方が青い。それは勿論そうだけど、自分の隣は結局元から自分の世界の一部だ。隣でも上でも下でも、自分から見た、自分とかかわりのある、自分にかかわりのないものもある、不思議な世界。隣という言葉は、そういう不思議な可能性を秘めている。知っているようで知らないところ。そして、それを知れば、新しい景色が見えるようになる。それも結局、隣なんだろうけど。

しかし、それはまた別のときの話。