万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

国民性の話をしよう

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京都から戻ってきて、そろそろ一年になる。そう言葉にすると、「帰る」ではなく、「戻る」という言い方をしてしまう自分に気付く。確かに、京都にいたころからしては帰ると言う方が正しいように思えるけど、いざオランダに帰ってみると日本に住んでいた時期が愛しく感じたりして、あの黄檗の小さな部屋で過ごした一年間を思い出す。
一年前のこととは思えない。

帰る場所がどこにあるのか。その認識が自分がどこの国民であるのか、深く関わっているはずだ。京都にいたころ「身体はオランダ人、心は日本人」と、自分を紹介したことがある。その時は大嬉利のネタの席だったけれど、そういうネタを思いつくこと事態が、自分の中の国民性が揺らいでいたのを示していたようにも思う。

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自分はどこの国の住民なのか。そもそも、一国の住民である必要なんてあるのか? 海外に長期滞在した人なら、誰でもが一階疑問に思うことだ。短期留学をしたりして一ヶ月、二ヶ月、いや一週間のホームステイをしただけで自分がその空間の住民である意識が湧いてくることがある。いまだに名古屋に戻ってみたい、いや帰ってみたいと思うのも正にそれだ。けれど、オランダに一年住んでいて、今の自分はオランダ人だと思う。
思うけれど、その感覚が世界どこに行っても揺らがない確証が全く持てない。

しかし、実際自分がいますんでいる国は一つしかない。昔知り合った人の中に、無国籍生活をしていると豪語する方もいたが、どれほど根深い習慣も、その場で有効かどうかで消えてしまうこともある。日本語の本を読むのが自分にとってものすごく大事な日課であったのにもかかわらず、毎月6冊から2,3冊へと確実に落ちている。それと裏腹に、日本では全く読まなかった洋書を再び読み出した。日本にいる間、英語の小説読もうと思ったことすらないはずなのに。

国という区切りに限らず、今時分がその中にいる環境は、自分の思考を誘導し、支配する。しかし「これを考えてはいけない」という強固な支配ではなく、そもそも新しい発想、その国では一般的ではない発想を生み出させない支配だ。日本の鎖国時代は決して物理的な鎖国であるはずもないけれど、精神的な鎖国を主張するのに十分な証拠は揃っていると思う。

かといって、国が、区切りがいけないものだというわけでもない。実際、ジョン・レノンのように、国のない世界を夢見ることは容易ではない。あっという間に崩れてしまう。ある集団に属している限り、その習慣が大事と掲げる価値観は存在する。そして山の中の小さな集落の価値観も、たまにはものすごい発展につながる発見をするだろう。

国を、自分の国民性を否定する気は決してないが、国を絶対的な空間にせんとする人たちの考えるほど、強固な物でもない。新しい人、物、習慣と出会うだけで崩れるものもある。しかし、国という概念が崩れても、人間が模索をやめることはない。国の中での人間、世界の中での人間の在り処、どちらかが大切なのか、私にとってすでに明確だ。

しかし、それはまた別のときの話だ。