万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

LGBTQ+の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

誰もがしたいもの。誰もが憧れるもの。恋とは多分人間なら誰もするべきだと思っているのではないだろうか。そういう迫力を持つ概念なのだ。実際は恋をしない人の数が多分圧倒的に多いのに、する人たちに対して私たちはねたみと憧れのまなざしで見る。

では、恋とはどういうものだ?大切な割には往々にして恋を真面目に語る人が馬鹿にされる。気取っているとか、八方美人だとか、皆こと恋になってくるとどうも敏感になってしまう。まぁ、恋をすれば色んな感情があらわになってしまうのだから仕方ないが。

だけど、そういう風習の上で、ここで敢えて述べさせてもらう。私が思う恋はとても単純でいて心地よいもの。とにかく、二人が一緒にいて楽しい、楽と思えるならそれでよいと思ってしまう。後は一緒にいてよりよい自分になれる相手であればなおよし。恋とは高め合うものだと私などは思う。それがどういう二人であっても。

この恋というものには色んなカタチがある。身体が男か女か、中身がどうとか、それを生きていて不安に思って変えたとか、いわゆるLGBTQ+という概念は近年発展しつつある。タイなどでは18個の性別が公式に認められている。私などは人間の自由にはもちろん賛成だけれど、正直性別の数を増やしたところで表現の自由が保障されているとは思っていない。人が幸せならいうことはないが、LGBTQ+の人は逆に悩みが増えているだけのように見えなくもない。

もちろん、それらはひとえに恋のあり方のみに関係があるわけでもないが、どういう人を恋愛対象として見て、その上自分はどういう人間でありたいのか、そういう考えから生まれたものだと思う。これは社会に向けた仮面であり、自分自身に向けた仮面でもある。

例えば、こうだ。人間は定まっていないアイデンティティーを嫌うようで、「セックスがあまり好きではない、やりたくない」という瞬間的な考えから「アセクシュアル」という性的概念を生み出してしまう。自分がどういう人間なのかを一番知りたがっているのはいつもその人間自身だ。

f:id:yorozuyawakarando:20180830025131p:plain

自分が統一的なアイデンティティを持ち、そのうち「どういう恋をしたいのか」というのも、自分の正確な一部だ。それを大切に思う人もいれば、そうでもない人もいるだろう。私は後者だけど、LGBTQ+として自己認識している人々の大半にとって、それはきっと自分の生き方の大切な部分だろう。この性格の中の優劣は、時には社会一般の問題となるもので、LGBTQ+は現代においてそのよい例であろう。

しかし、自分がそうだからといって、勿論他人もその価値観をそのまま受入れるべきではないだろう。「こういう価値観もある」というぐらいの認識で十分だ。自分の人生で自分が女性が好きだろうが男性が好きだろうがイカが好きだろうが、生き方が大して変わらない人もいる。僭越ながらそれを言わせてもらいたい。

結局はそれを問題にするほうの人間が悪いんだろうね。大切な物こそ、守りたくなる気持ちは分かるけどね。傍から見ている私たちはなにが問題なのかでさえ理解できない。
皆とりあえず「人間」というくくりだけで十分じゃないっていつも思うのよね。

しかし、それはまた別のときの話。