万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

再開の話をしよう

ようこそ、万事屋「和華蘭堂」へ!

この言葉で始めたブログを再開するにあたってやはりこの謳い文句は欠かせない。
しかし、自動変換にならないということだけでも、時間が絶えず流れてしまっていることを物語っている。ブログを書くのをなんとなく辞めてから、既に1っか月半ほどたってしまっている事実は動かない。毎日1000文字という目標でさえあきらめてしまって、今更のうのうと戻ってしまうのは恥ずかしいことでもある。

だけど、恥ずかしいがどうしたっていうのだろうな。恥ずかしいから立ち直るわけにはいかない、辛いなどと喚くほうが結局、一番恥ずかしいことなのだろう。発信したい、発信を一つの生きがいとするものとして、むしろ発信しなくなることこそが恥ずかしいなのだろう。

もっとも、私は実際発信することをやめてなどいないのだ。ツイッターで最近以前以上に面白そうなものや人に絡んだりして、同じ趣味の人も完全にかけ離れたものを取り入れている。大学を卒業して、アカデミックから一回手を引いて、むしろ人と直接触れ合い、しゃべり、じゃれあい、話し合い、議論しあっている。人を嫌いになったり、好きになったりしているそういう時間が一番人間らしいなのだろう。

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兎にも角にも、以前のブログからいろんなことが近づき、過ぎ去ってきた。バイトを始め、同僚と仕事に慣れ、いまや佐賀でのインターンに向けてその辞表を出してしまっている。大学で卒業式がようやく訪れ、大学という機関とのつながりはなくなったが、前以前によさこいや先輩後輩との交流に打ち込み、日本人留学生とも仲良くしたり犬猿の仲になったりしている。ボランティアをやって、期待をされたりする。本を読む。映画を見る。音楽を聴く。そうやって、生活が続く。

思うに、今の生活はひどく不安定だ。そのせいか、私の性格までが揺れに揺れている。もはや8月の時点の自分ではないのだろう。それは季節も関係するけど、それ以上に経験してきた出来事が大きい。毎日五感で経験する以上の経験をし、無意識のうちにそれに順応するように性格が粘土のように象られていく。

その性格の変動の流れを、われわれ人間はどうにか管理しようとする。そのために自分にご褒美を与えたり、罰を与えたり、どうにも自分の思うようにいかない場合は精神医にかかったりする。読む本、会う友達によって変わるというのなら、それを慎重に選べばいいはずだけれど、私はどうも選べずにいる。全てがほしい。すべての人間としゃべって、すべての本を読みたがる。まったく、人間とは貪欲なものだ。

しかし、そんな話は以前もしている。そしておそらく、別の時の話でもある。