万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

斜めのつながりの話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

 

おや、ずいぶんと物騒というか、重い話題を以て前回からほぼ一か月このブログを置き去りにしてしまったものだ。これは行かん。一か月以内ならセーフなのだろうか?一か月に一回しか更新されないブログなんて、ブログとして認識してもいいんだろうか?

御託はいいとして、今日は久しぶりに後輩同期を交えて談笑していたら青天の霹靂のごとく興味深い課題が浮かんだものだから、これを是が非でも表出せねばなるまい、と思い至ったわけです…なんて、いくら私でも堅苦しい言葉だろうね。話が少し前後してしまうけど、複線だと思って読んでもらえたらありがたいです。

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読者諸君は斉藤孝という教授をご存じだろうか? そう、東大のあの漢字博士。最近では「東大王」などで特等席を獲得したみたいで、いやでも毎週この顔を拝んでしまう。
「読書する人だけがたどり着く場所」や「頭の良さはノートで決まる」など、BuzzFeedやViceなどのキャッチコピーのようなタイトルの本を出版したりして、一定の読者層を虜にしている「大人の勉強法」ともいえる本のジャンルの開拓者。

しかし、そんな彼の本を、私は大嫌いだ。それも生理的なレベルで、上に挙げた本のタイトルを読むだけで悪寒が走る。同じぐらい嫌いなものを上げるとしたら日本人が執拗に使っている風邪予防のマスクだ。この二つで共通するのは何だと聞かれても答えに窮してしまうのだが。理由は言葉にしづらいが、どれも私の理性、価値観とは決定的にずれている気がしてならない、極めて個人的な怨嗟なのだ。

言葉にするのは難しいけれど、今日あるたとえを思いついて、それをなぞっていけば私の考え方を理解してもらえるんじゃないかと思えてきた。コミュニケーションとのミソはいずれにせよ自分の考えや感情を相手にできるだけ確かな方法、できるだけ的確に伝えることにある。そのためには、相手を一番に考えなければならない。

 

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ここで一旦、今日の後輩同期との食事会の話に戻りたいと思う。経緯はといえば次の通りだ。2年生の頃に私と同期の二人が参加した、日本語弁論大会というものが催されていた。私と男性の友達がそこで一位・二位をしめ、女性の友達は賞をとることはなかったが練習のために何回か参加し、今年も参加を決めていた。そこで学科の日本人の先生が経験者の私たちに(なかば丸投げな感じではあるが)同じ弁論大会に参加する後輩たち10名ほどのサポートを頼んできたわけだ。

今日はそういうわけで後輩たち10名、同期3人と日本人の有志3人で、ささやかなスピーチの読み合いをして、一旦解散になったがみな真面目なのか話好きなのか、しばらく三々五々で話し込んでいた。私も先輩としてアドバイスをあげたり、スピーチの是非を言い合ったり、日本人と遠慮なく話していたりしていて、楽しい時間だった。話の流れ後輩数人とSNSを交換したりもした。その後、流れ的に同期三人と1個下の後輩と中華を食べて、気づいたら10時だった。

それで長い帰り道で私は思った。気づけば縦のつながりも、横のつながりも大分できたものだなぁーって。それは本当にたわいもない考えだったけれど、けっこうしみじみときた。いい後輩を持った、いい同期を持った、恵まれているなぁーって。でも考えてみたらその二つでは、私が関わってきた人は語りつくせない。

縦の先輩後輩、横の同期や同じ世代の先生などとは別に知り合いはたくさんいた。それは例えば、居酒屋で知り合ったおっちゃんでも、インターン先で最初お客さんから知り合った佐賀の友達とか、社会人団体のよさこいや英会話の知り合いなど、共通点を上げるとしたら「ばらばら」の知り合いだった。クリシタンのとと友達の例を挙げれば、通っていた協会の友達が同じ系統なのだろう。だけど言おうと思えば、枚挙にいとまがないだろう。

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これらの「横でもなく、縦でもない」つながりの人たちを、仮に「斜めのつながり」とでも言っておこう。XY軸に対してのZ軸と考えればいい。XYだけでは二次元にしかならないが、Z軸を加えれば三次元になり、現実感を帯びていく。自分とは違う畑の人。たまたま知り合って、自分とは全く別軸の知識、常識を持っている他人。そういう人と知り合いになったら、どんな面白い展開になるのか、正直わくわくしてしまうのだ。

だけど、斉藤先生の想像する世界は違う気がする。大人が勉強し、本を読む人の独占域が生じてしまう。それがいやならお前も本ぐらいは読め、と言われる気がして腹が立ってしまう。「たった一つの世界」を掌中に持っていると思い込んでいる人はある意味、コミュニケーションをないがしろにする。するだけ無駄、ということになってしまう。難しい漢字だけ覚えて、コミュニケーションのために使わないんじゃ意味ないのでは、って私は思ってしまう。

だからこそ、斜めのつながりというのは大事なものだと思う。違う常識を持った他人と直面し、改めてコミュニケーションの必要性を実感する。自分だけが持っている知識、勧角、感情だとしても、きちんとそれを言葉なり踊りなり芸術なりにする努力を怠らないことが大事なのだろう。敵の思想こそを知っておこう、というのは少しずれているだろうか?

もっとも、斉藤先生の本を一冊も読んでいない私こそその努力を怠っているともいえよう。やっぱりこの論調は少しずれてしまっているのかな? どのみち、嫌悪感を覚えているのはそのタイトルであって、本の内容云々でもないしね。。仕方ない、次の来日の際には一冊ぐらいは買ってやろう。

しかし、それはまた別のときの話。