万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

お金の話をしよう

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正直、今日ブログを書くのは止しておこうかな、と思っていた。今週はちびちびと疲労が積もり、そのわりには大学でも社交生活でも手を全く抜いていないから、今の内に休んでおいた方がいい、と。だけどそんな生活をしていたら、気づいたら小説の読書量が確実に減ってしまった。それを憂うように、じゃせめて今日この一冊を読破したい、そう思ってしまったのが間違いだった。

その一冊が角田光代先生の「紙の月」というものだ。これ尾を読み終わって、強迫観念のように、文章を書かなければならない、狂おしいほどの衝動にかられ、これを描く。
それはどちらかといえば恐怖にも、逃亡にも見たような感情が源となっていると思う。

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この小説は、平たく言えば、金というものの概念に取りつかれ、銀行から莫大な金を横領した女の話で、その周辺で同じように金に生活を振り回されて、振り回されないようにして結局逃げ出せない人たちの話だ。元々は「八日目の蝉」を去年読んで、それが2年前付き合ったあの人が絶賛した映画を見たおかげだったが、彼女がこれの話を出したことはたぶんない。あったら覚えているだろう。

結論から言うと、これはとても読んでいてつらい小説になってしまった。もちろん金を横領することは法律的にも、たぶん倫理的にもだめなことである。しかし、人はダメなことでも、バレないと思うこと、楽しいこと、実現可能なこと、この三つの条件が合わさっていればいずれやってしまう。万引きしかり、浮気しかり、だ。本質的な意味では、確かに横領とは相違ない。空恐ろしいことには変わりないのだが。

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我々は、みな生まれて別の経済環境にある。日本では格差のない、みな同じような階級と言われても、人生いろいろあり、リストラあり玉の輿アリ、経済状況が人生半ばに激変的に変わってくるもあろう。この小説の登場人物はいずれ、そういう経済状況の変化に揺さぶられ、何とか立ち直ろうとすればするほど、足元を気にして転んでしまう。

日常生活、文化や生活習慣、金のありなしで優劣が作られてしまうことが多々ある。「奢る」という言葉が、「驕る」と同じ発音も当然のことだろう。子どもは生まれてから親に依存するしかないけれど、昔と違いそれは単にご飯などではなく、教育、移動手段、または「皆と同じであること」も、日本においては親の責任になってしまい、つまり親の経済状況、生産能力によってしまう。

金は安心を与える、と角田先生は書いている。もやっとした、心地よく酔っているような、腹が満たされたような、今の私は万能だ、たいていのことだったらできる、という気持ちにさせる。だけど、それはその金の出所を考えずにいられる人に限る。ほかの人の金に依存して生きている、それが個人であれ政府であれ、そう考えてしまうと多分金のそんな魔力はたちどころ消えてしまう。

金銭という概念の歴史について、それなりにテレビ番組やら本やらを読んでいて、しかしどうしても想像できないところがある。それは「想像上の概念」である金が、「実態を持つ」金と、人々の中で成立した時だ。物々交換はだれも疑うことなく金の由来ではあるけれど、物々交換から第三の「金銭」という媒体が人々の意識にとって当たり前になる過程が、結構複雑でどうしても想像しにくいのだ。

「紙の月」では、その逆が起こった気がする。物から第三の物体、そこからバーチュアルとなった文字通り「実態のない金」は、そしてまた無に帰る。価値のある無。そんなものを生み出したのは、きっと歴史上最高のマジシャンではないだろうか。

しかし、それはまた別のときの話。