万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

馬鹿と利口の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

基本的には、私には文章を夜に書く習性がある。このブログが日課的な要素も含んでしまっているから、確かに夜に書いても全然問題ないし、むしろ自然な流れだ。だからと言って不文律ではないし、こういう数日開けた後の日に書くと、こうやって午後に悠々と描くのもまた良い。

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世の中にはいろんな人がおりまして、与太郎みたいな輩もおればご隠居さんもいるのだ、ってこういえばどちらもそう利口ではないのだな。先日池袋にある一風変わった本屋さん、天狼陰さんにお邪魔したところ、結局買って鞄にしまった本が立川談春の「赤めだか」だった。そこまで古くはないので、ドラマなどで見た人もいよう。

京都大学に在学した4月から8月、私は短いながらも落研部員として落語と向き合ってきて、落語を日常の一部として過ごすあの人たちと生活の一部を一緒にした。まぁあくまで一部なので、談志さんはその時も落語の参考にしたんだけれど、その弟子さんに談春師匠がいるとはしらなかったし、あの最近やたらとテレビで見かける志らくさんが談志師匠の弟子である認識さえなかった。それもこれも「赤めだか」読んでいてようやくつながった事柄である。

そうやって読んでみると、落語会が一気に身近で親しみやすいものになってくる。立川流の人々は今日日もどこかでふてぶてしく生きている、とようやく実感できる。今までの落語家の認識は寄席の口座の上か、YouTube上で昭和を思わせる古いレコードだけである。けれど談志師匠も、令和始まるのが明日なら、前時代の生きた伝説になるのだろうか。

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こんな長い前置き(前置きというより、これはもはやマクラ)はないだろうと思うだろうそこのあなたのために、この投稿のタイトルに入ろう。赤めだかを読み終えた昨日は、突然談春さんの落語が気になり、「庖丁」を聞いたりして、その後YouTubeの粋な計らいで続いてきたのがその兄弟子にあたる志の輔師匠。この志の輔師匠がバカと利口の話をしだして、全くその通りだと思ったから以下略して紹介させてもらおう。

世の中には馬鹿も利口も混ぜ混ぜになっているのだけれど、基本的にはいい大学を出ている人ほど、利口な人が多いようで、なるほど私も東大の知り合いはそれなりにいるしそいつらも頭がいいっちゃいいんだろうさ。だけれどことが会社や組織ってなると偏差値高い奴らばかり集めてもしょうがない。なぜなら利口な奴らばかり集めて、その上で成り立つ合意は利口なやり方での合意で、傍から見ればそいつら全員がバカに見えるとなりかねないからだ。

だから詰込みも研究だけにたけた人材を開発部に回すのではなく、たまには縦横無尽にはたけちがいの人の意見を酒の席で聞いても、存外いい意見がでてくるものだ、っていうのが志の輔師匠のこの枕のミソなのだ。落語家らしく、真っ先に酒に走るけれど、まぁ一理はあろう。最近「課題解決力」というものがそれこあの落合陽一も重要視しているのだけれど、志の輔さんのあの言葉が発されたのち、少しは東大の若者も変わってきたのではないだろうか。

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最後に、一言。このブログも気づけば一周年を向かい、思ったよりも規則的にかけていないにせよ、書いているのが相変わらず面白い。今書こうと思った、というきっかけをくれたのが、毎回締めの挨拶としているあの言葉の由来であるAmazarashiの一曲から、適切な引用があったので、記そうと思った。

「夕焼けがやってくる頃に、僕らみな等しく赤くなる」

馬鹿も利口も、土も木も、人間も動物も、天皇ソープ嬢も、夕焼けの前では等しく赤く染まるを、忘れずに。

しかし、それはまた別のときの話。