万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

また努力の話をしよう

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おそらく半年以上前の話だろうけれど、前に一回、努力の話をここに投稿している。その時の趣旨は、記憶が確かであれば「努力している奴に死っとする暇があるなら、自分で努力しろー」という、いささかけんか腰な論調だったはず。その意見を、まあ少しは丸くまとめることはあるかもしれないが、本質的に変わっていない。先日落合氏も、同じようなつぶやきをしていたように思う。ただ、その時より一つ明瞭に分かったことがある。それはこのようなことだ。

「他人の努力も、必死さも怠け加減も、外からじゃわからない」

なぜなら、努力は数値化しにくいものである。客観的で絶対的ではなく、極めて相対的なものである。もちろん、体力や脳の大きさ、やかけた時間などはある程度数値化できるだろうけれど、努力が報われる程度、すなわち努力の質、効率の良さなどのものはどうしても戸惑ってしまう。それゆえ、自分の方から正論だと思うアドバイスは、相手によってケンカを売られているようにさえ感じることがある。

このような考えに至った経緯はとてもとても記したいところなのだけれど、これはいわゆる私生活からとったエピソードなので、人名や具体的な状況を伏せて、少し転換して書いてみたいと思う。

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例えば、高校の演劇部を想像してみよう。演技をやることというのは人によっては非常に緊張するもので、練習の量や場数などももちろん関係してくるんだろうけど、ある程度の資質、緊張しやすい人と生まれて緊張したことのないように見えるものだ。ここにどちらのタイプの人間、A君とB子がいるとしよう。まぁ、どちらがどちらでも構わない。そして三人目として、監督のC先生がいるとする。

ある時、本番前のリハーサルの場で、二人とも努力の賜物を見せるべく、本気で演技をし、本気で歌い、どちらもそれなりのパフォーマンスを見せてくれる。強いて言えば、片方が少しは緊張した雰囲気を出しているけれど、それが実際緊張しているのか、それとも普段からそういう性格なのか、第三者のC先生の方からはよくは分からない。けれど、C先生もどちらかといえば緊張する方のタイプで、つい感情移入してしまう。

そして、彼はこう言ってしまう。

「A君、よくやったぞ!少し緊張した方が人間味が出ていていいぞ。それが正しい心構えだ。B子、君はもうちょっと緊張していてもいいぐらいだ」

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こうして書いてみると、少し話の軸が現実とは違うけれど、これでA君は喜び、B子は少し苦い思いをするのは分かるだろう。

「C先生は分かってない、私だって緊張はするけど、顔に出ないだけなんだよ」

そう思うかもしれない。しかし、監督である以上、チームとして、舞台により良いものを上げ、お客様をより楽しませ、感動させるためには、分かりやすく努力している人が重宝される。少し必死の方が、少し劇的な方が「心を込めて」やっているように見える。だけれど、B子から見て、やっている努力の量は違わないし、演技のレベルもそう変わらない。

こういう風に、おそらく「努力」というなのみょうちくりんな概念は、体的な特徴、視覚的特徴により多くの影響を与えられる。そこに努力している人間の精神状態は、多くの場合考慮されない。なぜなら第三者にそんなことは分からない。それが、努力している方から見てどんなに悔しい思いをもたらしているとしても。.

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高校の時、誰よりも長く、網羅的にテスト勉強をする一人の女友達がいた。しかし、彼女はそれでいつもいい成績をとれた、ということはない。それでも9割はいい成績をとるから、ダメな時はむしろうざがられる結果になってしまった。努力を見せることも、見ることも難しいということだ。

さて、私もとりあえずもっと生産的な努力の仕方をそろそろ覚えたい。頭を使って努力したい。要は、勉強する前に勉強法を決めるようなものだけれど、人生でどう努力すればどんな結果が出る本など存在しやしない。他人の例も、為になりゃしない。結局は、手探りだ。天秤をどう傾かせるか、という程度の差かもしれない。

しかし、それはまた別のときの話。