万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

手紙の話をしよう

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自分はある意味、古い人間であるというか、世間一般の常識と軸が違う主務を持っていることは、おそらく日本語を勉強する前に大分理解していたことだろう。むしろ、一般的な常識で話すことが出来なかったり、周りの人たちが面白いと思うものを面白いと感じられず、半ば腹いせというのか、周りと意図的に違う趣味に精を出したりする過程で、日本語を始めたのだろう。

正直、そうでもしないと日本語なんてやれたものじゃないし、ここまで書けるようになることもなかったのだろう。想像より破壊を好み、新しいものより古いものを好むという、ひねくれ者なりの理屈はあったはずだけれど、これは結局割と孤独な道である。

そんな折、私が一般的でないと思っていたことを堂々とやる人間に出くわした時は、そんな二極化がどうやら間違っていると分かった。好きなものは好きでいていいと、むしろどんなものでもいいから好きなものを見つけてやっていないと人生なんてつらいばかりだって気づく。

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今日ようやく終わった小説、宮本輝の「錦繍」が、あるいはこれを教えてくれたのだ。読み終わって驚いたことに、1982年に出されたもので、10年来別れた夫婦が蔵王山のケーブルカーの中で顔を合わせ、その離婚の清算や、人生のわだかまりを解消しようと、文通を始める小説だ。が、35年以上前の小説で、正直読んでいてつらい部分もありました。

私にもこうやって主人公たち同様、何事も深く内省する癖があったはずだけれど、気づいたらそんなことを止めていた。他にその精神エネルギーを使う宛が見つかったのだろう。後から考えたらニヒリストというより、俗にいう中二病の一種、2次元が生まれる前のものなんだろうね。

手紙という手法は面白い。学部生の頃、棒ライデン大学の書籍史専攻の教授がなくなったときに残した膨大な大学用資料をインターンと称してその人の弟子にあたるその時の教授とグループで整理していたけれど、この中には膨大な私信も含まれていた。

オランダの書籍やその記録が歴史の流れで世界中に流され、彼はそれらを手元に整理するべく、また世界相手に手紙という武器で情報収集をしていた。大英図書館、ベルギー、ドイツのウォルフェンブッテル城という、書籍蒐集狂伯爵の遺産から、遠くはハワイ大学まで相手取っていた。

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「この資料をぜひ拝見させていただきたい」から「先日お子さんが生まれたようで、近日お伺いしたい」から「御病気はいかがですか」という、ある意味またとないような豊富な資料を見れて、手紙のすごさを知ったわけだ。

こうして日記代わりにブログを書いているというのもよいのだけど、ブログというのは不特定多数か、ある程度絞られた層を対象に書くもので、何をどう書いたらどういう反応をもらうとかなんて考えても無駄だろうという観念の気持ちは私の中にある。だけど手紙は、相手を考え、相手の思考をなぞって、解こうとするのは、他じゃできない経験、勧角をもたらしてくれるだろう。だから、手紙を題材とする小説もまたしかり。

ただ、思い返してみれば私もそれなりにおろそかにしているペン・パルがいるわけなので、こんなことを書いていないでさっさと一筆したためなさい、と言われても仕方ない。

しかし、それはまた別のときの話。