万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

写真の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

ゴールデンウイークから一週間の週末、よさこいの方では6月の演舞に向けて本格的に動き出したりして、私はやはりまだ動きがいまいちついていけないから一人で練習したりすることになる。その分、週末に暇が出来て、今日はといえば買い物をして夜ご飯の下準備をし、そして少しの間置いていた京極先生の新刊を読む。その中で一つのキーワードなのが、「写真」という技術である。

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写真というのは不思議なものである。歴史もそこまで古くはない。情報伝達の手段という面から見れば、文字などよりはずっと古いわけだが、確かに手で描くより、写真を撮ってそのまま情報伝達が行えるというのが当時はかなりすごい発明だったはずだ。なにせ素早いし、量産しやすい。新聞などで使うのに持って来い。

たとえば、観光の面でいえば、いくら言葉でイタリアの良さを伝えようとしていても、伝わらないものは伝わらない。写真の瞬時性、見て感じるものが違うのだ。本や書籍などに物を描いたりはできるけれど、写真を撮ってそれをコピーできれば新聞というものはわっと情報伝達機能を増してくる。それも安価で、不特定多数の人間相手に、だ。

勿論大衆に写真の恩恵が伝わるまで時間はかかったはずだけれど、届いたらそれは生活を変えていくものだ。例えば芸能ビジネスだと、写真などがないと成り立たないものだろう。絵の才能がなくとも、技術の心得一つでいろんな人の見た目が提供できる。つまり、空間的、時間的に映像を切り取ることが、条件的であるにせよできるようになる。

思うに、写真のない時代に、初対面の人がどれだけ偉い人だとしても、見ただけではわからない部分がいつでも残り、誰何する必要があった。けれど、写真を見て知っている人がいれば、それだけで人物特定が容易になってくる。警察の捜査などでも、誰を探しているのか、目撃者にいくら言葉で話していても無駄だ。その分、写真を見せれば、名前を知らなくとも見たかどうかぐらいは判断は着く。

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それに、今はもうないものでさえも、人に見せることができる。時事的な問題だけではなく、記憶を映像化することができる。あの20年前のヨーロッパ旅行で見た光景を、そのままといわずとも、ある程度正確に保存できる。東京で言ったら凌雲閣や上野の大仏など、大正の大震災ですでになくされた建築物を、我々は今でも見ることができるし、その延長線上でいえばアメリカのWTCも動画という写真の進化系で姿かたちが分かる。

我々の毎日にあるモノやコト、技術はこんな風に、ものの考え方やとらえ方、世間との向き合い方、知識の収集の方法などと間接なり直接なりにかかわっている。それを意識することで、当時の人の考えや思い、行動をもっと深く理解ができるはずである。そして、今後生まれてくるであろう技術が、我々の日常をどう変えてゆくのか、ある程度垣間見させることもある。

今新聞学科では、50年後の日本の技術の風景を考えてみようという講義が開講されている。技術など、文系の私に取ってから一番遠いものだと思っていたけれども、考えてみれば見るほど、こんな風に日常生活に密着しているものである。これからの世の中を生きる人として、技術の大切さを思い知らされるものだ。

しかし、それはまた別のときの話。