万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

建築の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

私は、自他に認める文系である。この先に何がどうなろうとも、せいぜい文武両道にしかならないし、それも甚だ怪しい。つまり、理科とか化学とか、「科」やら「化」やら「理」の付くものは、悉く苦手とする。正直、それは理論や理屈も含む。外からは「理屈っぽい」と言われる要素は認められるも、要は言葉を一杯知っているからそう見えるだけだと、私はいつも自己分析している。

ただし、理科が苦手だといっても、それは「理科を行う」側の問題であって、別に理科や自然科学に近い問題が嫌いというわけでもない。むしろ、小さい頃は化学とかが好きな子供で、よくある実験セットや実験手引書などを見て喜んでいた子供だった。歴史も好きだったけれど、それと同じぐらい新しい物質やら宇宙の法則を計算していく研究者たちに憧憬の気持ちを抱いていた。

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だから、嫌いというわけではなく、ただただ「できない」というだけなのだ。今でも
新しい宇宙発見や、新技術の発表の旅に、興味津々と記事を読んだりしている。5GだとかAIだとかホログラムやら自動運転やら、見たりするのはむしろ好きな部類だ。そしてその中で一番「自分には無理だが、他人のを見るのは好き」というカテゴリーに入るのは、建築である。

私にとって、建築とは「反逆」である。「できないこと」に対しての反逆。それを否定しようとする者への反逆。そしてもちろん、自然への反逆である。ただこの感性は私のものではなく、アイン・ランドという、以前建築の話題に少し触れた時に少し書かせてもらっているロシア生まれ、アメリカづ枚の女流作家のものである。ゆえにこれは彼女の「水泉」という小説を読んで受けて、咀嚼の末に導き出した、一つの答えである。

「源泉」の主人公、ハワード・ロークは妥協をしない男だ。自分の感性と腕に絶対的な自信を持つ、不撓不屈の心身を持つ、いわば超人的な存在である。自分の感性が世間に認められなくとも、いずれは仲間は現れる。同意見のものは出る。時代は変わる、いや、自分が主体となって変えて見せる。そんな強さがロークの性格の根幹をかたどっているようだ。

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ランド氏の小説には往々にして、こういう「人を超えた人」にも見える登場人物が登場する。もちろん彼女もそれが現実ではありえないものと自覚し、そうエッセイーなどに書いているけれど、まああくまで文学作品なので、その枠組みでとらえるならむしろ美しささえ感じえる生き様を見せてくれる。

今日建築の話を投稿するのはまた文学作品で、横山秀雄の新刊である「ノースライト」がきっかけなのだけれど、綾辻先生の館シリーズなど、建築物や森博嗣先生のSMシリーズなど、建物を前に押し出して扱う文学作品はそれなりにある。もちろんトリックという条件付きがある推理小説はことさら多いのだが、それ以外にも様々なので、そういうテーマで一つの本棚を作ってみても面白いだろう。

最近そういう「テーマ」をもとに本棚を整理する本屋も増えているようで、一つの内装的な革命が起きつつある気もする。建築という行為は、ゼロからイチ、真新しいものを作るという側面と、既につくられたものの空間整理、内装を変えたり建物の使い方に沿ってリフォームするという、二つのステージが存在するように思う。また、「家」という枠組みを出れば「都市開発」やら「都市計画」という、大きな枠組みに入るのだけれど、これらは大本が一緒だろう。つまり、空間をどう使い、既存の空間の整理にどう抗うか、という課題である。

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勿論、これは全部素人考えである。こうして書いてみると、実際建築業の知り合いにまた会いたくなったり、面白い建物を見に行きたくなったりする欲望が湧いてくるのだ。東京に、自分の身近に探せばきっと、お気に入りの建物はどこかにはある。今度、それを再び探しに行ってみたいと思う、

しかし、それはまた別のときの話。