万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

ダイバーシティの話をしよう

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忙しい日々の中(その忙しさの質的問題は別として)ブログを書く回数がガクンと減ってくる。上智での勉強を始めてはや二ヶ月半、今学期も終わりに差し掛かろうとしている今日この頃、大学では「ジャーナリズムとダイバーシティ」というテーマでシンポジウムが開かれました。高校の時に依拠する豆知識を披露すると、この言葉は元々「共に飲む」ということを指しており、いわば宴会なのである。だから、厳密にいうと、二日続けて私はシンポジウムをしてきたことになるのだ。

くだらない冗談はさておき、今日の内容を受けて色々書きたい気持ちが浮上してきて今日レポートの草稿として書いてみたいと思っている。本日の主役はわが新聞学科の音先生と阿部先生お二方がもちろん相変わらず鋭い洞察力を持っている。そのほか、アメリカのコロンビア大学ジャーナリズム大学院のジャケット先生とその卒業生であり、前回投稿した「RGB・最強の85歳」の制作スタッフのナテゥーさん、日本経済新聞の桃井さんという女性政治部記者と総務大臣野田聖子というかなりすごいメンツが集まっていた。

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だけれど、彼らがダイバーシティーを語るとき、それは今は遠き、理想のようなもので、頑張ればいつか男女平等などが目指す目標としてあるばかりだ。それは大変いいのだけれど、私はやはり違和感を覚えてしまう。質問をするときに、社会学科の方が鋭い質問をし、私はハッとした。自分の言葉に置き換えると「ダイバーシティという言葉は、流行り言葉になっていないか? それを口にする人たちは口ばかりで内容がかなり遅れてはいまいか?」のような内容だった。

確かに、個人としても、メディアを通しても、多様性ということは往々にしてかなり狭い範囲内で語られてしまうことが多い。今現在女性の管理職は少ないだとか、同性愛者結婚できるかできないかとか、イスラム系の人が差別されるとか、ニュース一つ一つはもちろん報道されるべきだろうけれど、全体的に多様性の本質を、我々は知らず知らずに見失っていないか?

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グローバル社会において、多様性は目指すべき目標などではない。それは厳然たる、目の前にある、ただの現実に過ぎない。多様性に関する問題は全部、その人たちが実際社会に存在し、社会の一員一員としてそれ相応の当たり前の権利を持っている、ということから始まる。つまり、認知から始まるのだ。そして、多様な社会の人々がそれぞれ認知されるように尽力するのがメディアなら、能動的に視野を広げ、様な社会を認知するように踏ん張るのは我々一人一人の責任である。

その意味ではダイバーシティの対象者は、決してゲイやLGBT、女性か男性か、年上か年下か、などという決まった人間ではない。我々全員は、社会における多様性の当事者である。多様性を受け入れた世界の始まりは、自分が多様化した社会の当事者であることから始まるのである。

マイノリティーは、相対的な概念である。日本において、外国人、そしてもちろんオランダ人の私は少数派だ。同様に、今日登壇したナテゥーさんはパキスタン系の2世アメリカ人で、アメリカの地元ではどうみてもまだまだマイノリティー扱いされる。しかし、我々は法と神の下で(というのは宗教っぽいだろうけれど、この場合どちらも人間を超えて人間が作ったものという意味で)平等である。マイノリティーだからといって、他人が享受する権利を享受できないのは、その理論のルールに反するのだ。ただ、それだけのことだ。

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ただ、我々人間はだれしも不平等だ。この世に、精神の平等、体の平等などは多様性という人間の特徴ともいえるものに約束された、それこそ厳然たる事実だ。その最たる例として、今日野田先生が言った言葉をパラフレーズしてみたいと思う。

日本において、私は男女平等参画のために尽くしてきたつもりだ。けれど、労働において平等ということはつまり、女性が男性と同じぐらいの量の働きをし、その報酬として同じ程度の給料をもらうことを意味する。ただ、女性は男性が物理的に不可能な「出産」という名の能力を持つ。ならば、女性が男性と平等に労働することは、男性が働く程度の上に、出産育児負担がある、ということなのだ。これはどう見ても不可能だから、結果的にどちらしか選べないのである」

これを聞いて、私はまたもハッとしたのだ。こんな当たり前のこと、なぜ今まで気づかずにいたのだ。野田さんの言うように出産は女性の義務なのかどうかという議論は別として、ここもまた厳然たる事実としての男女の差が浮き彫りになっている。元々違う者同士を無理やり’一緒にすると権利どころか生命活動も保証できない。そもそも、一国の政府だけじゃなく、永久にこの二つを真の意味で両立させることなんてはなから不可能だ。ライフスタイル、ライフチョイスという概念における、確固たる限界である。

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話がだんだんそれてしまっているようだが、多様性という概念と、民主国家社会の一員として当然のように付与されるライフスタイルを選び、幸福追求する権利の折り合いというのは上のように大変難しいことだ。だけど、マイノリティーや多様性という変てこなレッテルの中に入られてしまう人を認知させ、不当に差別される場合にその権利を主張できるようにするのはまぎれもなくメディアの役割である。

多様性を認めなければ、メディアというものはドンドン画一化していく。今頃第二次世界大戦のようなプロパガンダにならなくとも、面白い視点、新しい考え方を持つかもしれない他者と触れ合うことなく一生を終えてしまうかもしれない。文化の画一化に対しての一番の特効薬はだから多様性である。広い世間の中で、認められない才能を持つ人がいる。

今その視点、その考えを発信する手段を持っていない、将来の仕事パートナーになりえるような人材、職業、場所は、あなたの知らないところでもう活躍しているかもしれない。ならば、あなたは出遭うべきなのだ。人間の一番の使命はつまり、自分のなりえるベストの人間になることなら、その人に会うべきだし、その人に会えるような手助けをしなければならないのはつまりメディアだろう。世間全般がこのように現存するあらゆる多様性を認めてしまえば、人生は少なくとも今よりは楽で楽しいものになると思う。

しかし、それはまた別のときの話。