万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

モノガタリの話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

土曜日が珍しく予定なしになってしまったせいで、昨日からやりたいことを考えていた私はふと「池袋へ映画を見に行こう」と思いつく。特に理由はなかった。いや、そもそも何か行動を起こす「理由」ってなんなんだろうって、行動を起こしてみて初めて考えることになる。

モノガタリ、という言葉にはいろんな意味藍やニュアンスがある。神楽坂にある本屋さんもあれば、ライトノベルシリーズもあるし、それぞれ自分の物語の意味合いが微妙に同じだったりズレていたりする。けれど、彼らの中にはおそらく「モノガタリ」がなんなのか、価値観や世界観、社会通念などのものと連綿とつながっている定義があるのだろう。すくなくとも、そんな言葉を使うぐらいだから、それ相応の覚悟を以て使ってほしいものだ。

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上のような理由で「モノガタリ」という言葉を忌み嫌う人もいるようだけれど、今日は池袋で見た映画、望月衣塑子記者の小説をもとにした「記者たち」をもとに、この言葉の考察をしてみたいと思う。映画そのものに関しては色々甲論乙駁がありそうではあるが、そもそも望月記者の存在を知ったのが先日なので、その辺は有識者に任せよう。

ただ、少しは内容に触れずには通れまい。あらすじでいえば、内閣府の管轄下にある「内調」である内閣府情報調査局に努める男性と、大手新聞の記者をしている女性の二人を主人公にし、二人が「官邸主導の新大学」なる怪しい企画を暴くことになるというのが大まかなストーリだ。

映画そのものはとてもいいと思った。若手の松坂さんや韓国の女優シム・ウンギョンの白熱な演技、岩代太郎の作曲の使い方や間合い、息を飲むほどよいものであった。けれど、この映画がなにかを伝えようとして作られた「メディア」としてどこまで意味を持ちうるのか、少し疑問に思ってしまった。

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日々メディアに触れる我々は、知らず知らずのうちに現実世界とは別の世界認識をしている、とリップマンという社会学者はいう。彼の造語を借りれば、それは「疑似環境」である。それが「偽物」の環境なのか、それとも物理学などでいう「モデル」に近いものなのかは定かではないが、私は後者の方と考えて論じることにしたい。

新聞やテレビ、メディア全体の一つの役割には「思想の自由市場」がある。現代ではFacebookツイッターがそれに最も近いし、しばらく前までは2ちゃんねるなどの掲示板がそういう役割を果たしていた。ただし、そこに載る情報は、全部一旦「人間」という名のメディアを通して世に放たれる。そして人間は往々にして、ものを「モノガタリ化」してしまう。現実に近づこうとすればするほど、遠ざかるようである。

リップマンの「疑似環境」は私が思うに人間が日常生活において、一番基本の世界認識、「時間」「空間」と「視点」を以て始まる。物事を語るとき、この三つを外して論じることは、とても難しい。時間がなければ、物事の順序がない。空間がなければ、現実世界でどの風に物事が起こるのか、想像できない。そして視点がなければ、自我が成立せず、どの情報を優先すればいいのかわからなくなる。

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だからこそ、フィルター・バブルなる現象が起こるのはある意味当たり前なのだ。「自分」という視点が今ここに存在してこそ、行動をしてその三つのものが変化していくのだから、環境の認識はその自分のあり方に全面的に依拠してしまう。そしてその上で、テレビや映画、SNSや新聞などの「二次的メディア」がその世界認識を拡張させる。

ただ、元々我々の生きる「疑似環境」(世間と言い換えてもよい)は狭いもので、パターン化やステレタイプにあふれている。それもそのはずだ。現実というやつはあまりにも膨大で、一国の動向を一人の人間ができるほど簡単ではない。だから、我々はモノガタリを求める。これとこれが最初はこうで、こういう風にこういう理由でこうなった。それがもっともらしいもので、否定されなければ大抵は受け入れられる。

「新聞記者」は二つの対抗する「モノガタリ」の争いをテーマにしている。内調という組織、延いては国に、「国家体制」という名の下で都合のいいものと、松坂演じる主人公の元上司が伝えたかった「現実」。しかし、この映画そのものもまた「モノガタリ」で、疑似環境なのだ。安易に「これこそ今の安倍政権の独裁だー恐ろしい」のようなコメントをしてはいけない気がする。

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むしろ、私がこの映画から得た教訓は、疑似環境はあくまで疑似環境で、自分だけを信じていればいいってわけではない、っていうことだ。もっとも、この映画からもそのような視点を受け取った。「自分を信じて、疑うこと」を信条とする記者吉岡は、父の自殺を語るとき「自殺をするほど弱い人間ではなかった」というものの、自分でもその言い分に納得していないように、私の疑似環境からは見えた。

自殺をモノガタリ化することは、ある種のトラウマの処理の仕方であろう。だけれど、人間の行動にそれほどの意味を付与していいものだろうか。「自殺」というものにタブーをつけてこそ、「自殺する」行為が「強弱」に分けられる。人生の一瞬一瞬、本当は走馬灯のように、時間とは無関係に、一フレーム一フレームずつ進んでいる世界という名の映画が、高速で移っているだけかもしれない。なら、この瞬間と次の瞬間に因果関係を見つけるのは、人間がいつまでも物語を求め続けるからだろう。

しかし、それはまた別のときの話だ。