万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

旅の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

以前には確か、旅行の話題では書いているのだけれど、今日は敢えて「旅」の話をしたいと思う。なぜなら、旅行には「行く」必要があるのに対して、「旅」はいつでもどこでもできるからだ。ただ、旅行には旅の側面が含まれているのは言うまでもない。

旅というのは思うに、ただ場所を変えることではない。むしろ、場所というのは関係ない言葉である。ワンルームの四畳半の布団の上でだって、我らは旅することができる。問題なのは物理的な距離ではなく、精神的な距離だろう。そのために、物理的な空間が変わることは、単なるきっかけというか、引き金になっているのに過ぎないと思う。

私は前から、空間演出というものに興味を持ち続けている。最近では物理的な空間演出がメインで、そのよい例としてAR(拡張現実)やらVRやらがうたわれる時代になってきたのだが、精神的な空間演出はより原始的で、人間の思考パターンに組み込まれ、そのパターンを想定した上で行われるものだって、最近自分なりに納得できるようになった。

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水曜日から数日、私は友達六人と一緒に名古屋に行ってきた。それ自体は「旅行」という方が最も分かりやすいし、適格である。物理的な距離なら、誰に話してもなにをしたのかは大体分かってもらえる。それに対して、どんな「旅」をしてきたのかは、なかなか伝わりづらい。自分探しをしてきたとか、クリエイティビティーを充電してきたとか、悟りを開いたとか、逆に胡散臭がられるのがオチなのだろう。その旅が本人に対してどんなに実態を持ったものだったとしても、だ。

勿論、場の持つ力はなきにあらずである。美術館や庭園、豪華な屋敷やおちぶれた一軒家、古い戦場跡や常夏の島の海、教会やオペラ座、そしてそこにいる自分という組み合わせをもって、人間はまた自己統治をおこなう。「なぜ私は今ここにいて、これをしているのだ?」その問いに対する答えを、我々はどうしても求めてしまう。

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名古屋に行って、私も私で「旅」をしてきた。普段旅行するときは最近めっぽう一人旅で、人に会うとしてもそれは自分から会いに行ったり、ホステルや居酒屋であったりする程度のものであった。今回は久しぶりに三日間それなりに顔は知っているけれど、まだまだ個人的に知った気にはなれていない人との旅行だった。

そんな旅行の発端も些細なもので語っても大して感動する人はいまいが、その旅行に参加してきた人たちはそれぞれその旅を自分のモノガタリに組み込んでいくことだろう。私にとっては3年ぶりの名古屋で、友達と旅行に行って朝方までカードゲームをやるのがほとんど高校以来だったし、自分自身の歴史の中でそれなりにビッグ・イベントだったのだ。しかし、いかにしてそんな自分の旅を他人に発信していくべきだろうか?

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この例ではそれは移動を伴った旅であったけれど、勿論上の通り一人で朝まで本を読みつくしてもそれは立派な旅である。感動した作品の多くの場合は、読み終わったとき「長い旅だったなぁ」という感慨が伴ってくるものだ。

この場合、本でも映画でもよくて、没入できるほど確固たる世界観を保持していればよい。それはもはや作品自体の内容に対する感情ではなく、むしろそれを見ている自分の一喜一憂というか、感情の起伏に対するものだ。特に映画の場合は映画館と屋外とは明暗の差が激しいため、一瞬のうちに次のシーンに切り替わるような気持ちになるし、読んだ後にすぐ寝てしまえばそれもまた切りが良い。

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そのような旅を、我々は一回ではなく、何度も「記憶」という形で経験することだろう。しかし、それはもはや歴史であって、こと自体ではない。それどころか、思い出すたびにその記憶は、今の自分のモノガタリに会わせるために再構築され、新しい意味が付与されてしまう。それを人間性というのだろうけど、これは果たして良い性か、悪い性かは今の私にはまだいえない。

しかし、それはまた別のときの話である。